忌まわしき花嫁 5
飛行機の機内、Diamondという名の男性キャビン・アテンダントが通路を進み、Sherlockの肩へ手を置いて静かに揺すった。
Diamond: 着陸しました。着陸しました。
SH: (ゆっくりと目を開ける)ああ、ああ、ああ、だめだ、今は。
ショックに陥りながら目を見開く。外ではMycroftとJohn、Maryが搭乗口へ向かっていた。
SH: (困惑しながら自分自身に)ああ、ああ、ああ、だめだ、今は。
Diamondが引き下がると、女性の機長が通路を進んでSherlockに歩み寄り、彼に微笑みかけた。
機長: 空の旅をお楽しみいただけたようですね。
Sherlockが見上げると、機長はCarmichael夫人にそっくりだった。機長の制服を身に着けている彼女は笑みを浮べてうなずき、彼から離れた。そこへMycroftたちがやって来た。
MH: うむ、予期していたよりは短い亡命となったな、弟よ。もっとも、お前のOCD(※強迫性障害)の度合いからすれば充分だろう。
荒い呼吸をしながら、Sherlockはどんよりした目で兄を見上げて叫ぶ。
SH: 戻らなきゃいけない!
MH: え?
SH: もう少し…もう少しだった!掴みかけてたのに!
MH: 一体何のことを言っているんだ?
JW: 戻るってどこへ?そんなに遠くへ行ってないのに。
SH: Ricolettiとその忌まわしき妻だ!わからないのか?
MW: いいえ、わかるわけないでしょ。ちっとも意味がわかりません、Sherlock。
SH: 事件が、100年以上前の有名なものが、頭のハードディスクに埋め込まれていた。その女は死んだはずだったのに、よみがえった。
JW: そんな、Moriartyみたいに?
SH: 自分で頭を撃ち抜いた、Moriartyとまるっきり同じに。
MW: (Sherlockと向かい合う座席に座りながら)あなたは話を聞いただけなのにね。わたしたちだって見つけたばかりなのよ。あの人は国中のTV画面に現れたの。
SH: (シートベルトを外しながら)そうか?で?Mycroftが電話してきてから五分経ってる。(兄を見上げ)何か進展はあったか?何をやっていた?
JW: (少し笑って)もっと気になるのは、君は何をやっていたか、なんだけど?
SH: 精神の館にいたんだ、当たり前だろ…
JW: 「当たり前」!
SH: …実験してたんだ、「1895年に存在していたら、どうやって事件を解決するか」って。
MH: おい、Sherlock。
腹を立てて失望したようにMycroftは顔を背けてしまった。Maryは座席の脇にある棚へ置いてあったSherlockの携帯電話を手に取り、何かを調べ始める。
SH: 細かなディテールまで完璧にして。
Mycroftは通路の反対側にある、後方へ向いている座席に座り込んだ。両手を傘の持ち手に重ね、顎をその上に乗せる。
SH: (両手を振り回しながら)僕はそこにいた、完全に!入りきっていた。
MH: (わずかに頭を持ち上げ、遠くを見つめながら)そうだろうな。
MW: (Sherlockの電話を見ながら)Johnのブログを読んでたのね-あなたたちが出会ったときのこと。
Maryは視線を上げて、Sherlockに笑みを向ける。
SH: (うなずきながら)こいつの目に僕がどう映っているかということが時には役に立つんだ。より賢くなっている。
MH: (弟へ視線を向けて)そんなことを信じてもらえると?
JW: いや、こいつには可能なんです。僕も目撃した-精神の館。頭の中に世界が存在しているかのような。
SH: (苛立ちながら)そうだ、僕はそこに戻らなくちゃいけない。
MH: 精神の館は記憶のテクニックだよ。私も何が可能か把握している、間違いなく不可能なことも。
SH: ひとつかふたつ、僕は知っているが、あんたの知らないことがありそうだ。
Mycroftへ視線を向けると、相手も視線を返した。
MH: (キツい口調で)ああ、そうだな。(一瞬の間を置いて)リストを作成したか?
Sherlockは視線を外し、親指の爪を噛んでいたが、再び兄へ向き直った。
SH: また太ったな。そのウエストコートは明らかにジャケットより新しい…
MH: (怒って)やめなさい。やめるんだ。リストを作成したのかね?
SH: 何の?
MH: すべての、だ。Sherlock。摂取したもの、すべて。
Sherlockは目を回して顔を背ける。
JW: ああ、違いますよ。トランス状態に陥ってるんだ。前にも見たことがある。
するとSherlockは胸ポケットから折り畳んだ紙片を取り出し、床に投げ出した。Mycroftが目で合図するとJohnがそれを拾い上げた。Mycroftは視線を外し、Johnが紙を広げてみる。そこに書かれている内容を見てJohnは大きな衝撃を受け、Sherlockを見た。
MH: (顔を背けたまま)協定を結んだのだ、弟と私で。あの日から。
Sherlockは唇を噛む。
-若かりし頃のSherlockが床に置かれたマットレスに寝転んでいる。そばには瓶に入ったロウソクが燃えていた。Sherlockは摂取したドラッグの影響で悶え苦しんでいるのだった。マットレスの足元に20代と思われるMycroftが座っていて、弟の脚のそばに置かれている紙へ手を伸ばした。
MH(声): どこで弟を見つけようと…
現在のSherlockは目を閉じている。
-過去の世界、Mycroftは紙を手に取って、内容を確認する。弟の苦しみは続いている。
MH(声): …裏道だろうと、安宿だろうと…
現在のMycroftはシートに深くもたれかかる。
MH: …必ずリストがあるのだ。
JohnはMycroftと向かい合う席に座り、リストを掲げて見せた。
JW: 五分でこれ全部を摂取するのは不可能です。
Mycroftは不快そうに息を吐き出してSherlockへ視線を向ける。
MH: 乗る前から「ハイ」になっていたんだよ。
MaryはSherlockの電話を棚に戻して、自分の電話ですばやく文字を入力していた。
MW: そうは見えませんでしたけど。
MH: (弟を見たまま)中毒者には訳無いことだ。
SH: 中毒者じゃない。利用してるだけだ。倦怠感を緩和し、場合によっては思考を高めたりする。
JW: いい加減にしろ!命が奪われる!死ぬんだぞ!
SH: 適量であれば死に至らない、禁断症状は永続しない。
MycroftはMaryが電話で何をしているのか気になっていた。
MH: 何をしている?
MW: Emelia Ricoletti-調べてるんです。
MH: ああ、そうしようと考えていた。
Sherlockは苛立って目を回す。
MH: 私はMI5の最高機密にアクセス出来るから…
MW: ええ、それをやってるんです。
Maryは画面から顔を上げずに笑みを浮かべる。Mycroftはわずかに動揺した。
MH: MI5のセキュリティを何だと思っている?
MW: (眉を上げ、Mycroftへ視線を向けて)そうするのが良いだろうと思ったので。
笑みを向けると再び電話の画面に注意を戻す。
MW: Emelia Ricoletti。未解決…
Sherlockはうなだれて両手に顔を埋めていた。Maryは彼を顎で示す。
MW: …この人の言う通りね。
SH: (目を閉じたまま顔を上げて)みんな五分間黙っていてくれないか?(目を開き)戻らなくちゃいけない。もう少しで掴みかけてたのに、君たちが来てギャーギャー騒ぎ立てたから。
JW: 「ギャーギャー」?(厭味を込めて)すみませんね、僕らはお邪魔だったようで?
MH: (前へ乗り出して)Sherlock、聞きなさい。
SH: (目を閉じて)断る。あんたを助長するだけだ。
MH: 私は怒っていないよ…
SH: おお、そりゃ良かった。ほんと心配してたんだ。(目を開いて)いや、違う。(兄へ顔を向けて)そんなことない。
二人はしばし視線を交わす。
MH: (優しく)今までもお前のそばにいた。今度もお前のそばにいる。
二人は視線を合わせたままでいる。
MH: (優しく)いつだってお前のそばにいるよ。(視線を落として)これは私の過失だったのだ。
SH: (かすかに首を振って)あんたには何も関係ない。
MH: (思慮深く、下を見つめながら)独房に一週間。気付くべきだったのだ。
SH: 何のことだ?
MH: お前の事件で、独房がお前を最悪の敵と一緒に監禁してしまっている。
Sherlockはため息をついて、宙を仰いだ。
SH: ああ、勘弁してくれ。
片手で頭を掴むと、Johnの声が聞こえた。
JW(声): モルヒネか、コカインか?
顔を上げてJohnに向けて眉をひそめる。
SH: 何て言った?
JW: 何も言ってないよ。
SH: いや、言った。言ったよ…
Sherlockの口が動くが、Johnの声で聞こえる。
SH/JW: 今日はどっちだ-モルヒネか、コカインか?
Sherlockは困惑するJohnを見つめる。Maryも異常を感じて立ち上がり、Mycroftは眉をひそめて弟を見ている。
SH/JW: Holmes?
ヴィクトリア時代の221B。居間の床にHolmesが横たわっている。
JW(声): モルヒネか、コカインか?今日はどっちだ?
扉の閉まる音が聞こえるとHolmesの指がピクリと動いた。
JW(声): 答えろ、畜生!
Holmesはハッと目を覚ました。頭はクッションに乗っていて、手のそばには注射器とケースが転がっていた。
SH: Moriartyが来た。
扉のそばでWatsonが手袋を外している。
JW: Moriartyは死んだ。
Holmesは曖昧に手を挙げ、後ろの方を示す。
SH: ジェット機に乗っていた。
JW: 何だ、それ?
SH: (顔を上げながら)君もいた、Mycroftも。
肘で身体を起こしている間にWatsonは煖炉の方へ歩み寄る。
JW: この部屋から出ていないだろう、Holmes。君は…一歩も…動いてない。さあ、言えよ、モルヒネか、コカインか?
SH: (髪をかき上げながら)コカイン。
膝で立ち上がる。
SH: 7%の水溶液だ。(※)
注射器をケースに入れ、立ち上がってWatsonに差し出す。
SH: 君も試してみるか?
JW: (厳しい口調で)断る。だが君が所有している分を探し出して窓から全部捨ててやりたいね。
SH: (ニヤついて)それは阻止しなきゃならないな。
JW: なら思い知らせてやる…力尽くになるが…僕らの一方が兵士で、もう一方は麻薬中毒者だってことをな。
SH: 兵士じゃない。君は医者だ。
JW: (近くまで歩み寄って)いや、僕は軍医だ。だから君の身体全部の骨を、名前を言いながら折ってやることが出来るんだからな。
SH: ああ、Watson、君は感情に理性を曇らされているよ。
JW: (注射器を指差しながら)事件の最中はやらないって。(音を立てて息を吸い込み)約束しただろ。やらないって。
SH: いや、それは君の書いた話の中でのことだ。(笑みを浮かべる)
JW: いいか。(呼吸を荒げながらHolmesを指差す)君のためなら喜んで馬鹿になるさ。間抜けな奴みたいに君の後ろにくっついていくさ、君を賢く見せるために。君がそれを必要とするならな。でも、頼むからさ…(怒りで声を荒げる)…君は自分を高い水準に保っていてくれ。
SH: なぜ?
JW: 人がそれを求めているからだ。
SH: 人って?君の書く馬鹿げた話のために?
JW: そうだ、僕の書く馬鹿げた話のために。
そこへハウスボーイのBillyの声が聞こえてきた。
Billy: Holmesさん!
扉を開けて中へ入ってくる。
Billy: Holmesさん!電報です、Holmesさん!
電報をHolmesに手渡すと部屋を出ていった。Holmesは内容を確認すると衝撃を受け、Watsonへ視線を向ける。Watsonは興味のない振りを装っているが、実際は気になって仕方がない様子だった。
JW: どうした?何かあったか?
SH: Maryだ。
Holmesは扉へ歩み寄っていく。
JW: Mary?一体どうしたんだ?
SH: 危険が迫っている可能性が高い。
話しながらガウンを脱ぎ出す。
JW: 危険って?
SH: 一刻の猶予もない。
JW: コカインの作用が残ってるのか?
Holmesは外出用の上着を取って着始める。
JW: Maryに危険が迫っているって?友達のところへ行っているはずだぞ。
SH: (厳しく)行くぞ!
Holmesは階段を駆け下り、Watsonも後に続いた。Holmesは途中で身体がよろめき、階段の手すりに捕まらなければならなかった。顔をしかめながら玄関ホールを進み、上着を整える。
JW: 何が起きている?
Holmesはコートを取って着始める。
JW: 君はだいじょうぶなんだろうな?
SH: Maryのためだ。心配するな、Watson。信じろ。
しかし呼吸が乱れて、うめきながら身体を屈める。
JW: Holmes!
Watsonが身体を支えようとするのをHolmesは振り払った。
SH: だいじょうぶだ!
呼吸を乱しながらも手を伸ばして帽子を取る。するとWatsonがそれを引ったくった。
JW: それじゃない。
そしてその帽子を廊下に投げ出すと、鹿撃ち帽を差し出した。
JW: こっちだ。
SH: なぜ?
JW: Sherlock Holmesだから。この帽子に決まってる。
Holmesは顔をしかめていたが、鹿撃ち帽を受け取って被った。二人は玄関ホールから通行人で賑わう外の通りに飛び出す。(※) Holmesはあたりを気忙しく見渡し、Watsonが馬車を呼ぶ。
JW: 馬車は?馬車!
※コカイン、7%の水溶液
…原作「四つの署名」。Holmesがコカインの7%水溶液を摂取し、Watsonが憤る場面がある。Holmesは事件がなく退屈なときに薬物を摂取すると語っている。
※玄関ホール
…ステンドグラスには原作「バスカヴィル家の犬」初版単行本のデザインの一部があしらわれている。
馬は速足で駆け、辻馬車は田園地帯を進んでいく。太陽は沈みかけていて、間もなく夜になりそうだった。
JW: なあ、教えてくれ。妻はどこにいる?
Holmesは片手で頭を支えている。
JW: 言ってくれ。何が起きているんだ?
Holmesは苛立ちながら顔を上げるが、彼の方を見ようとしない。
SH: ああ、良い奴だな、Watsonは!質問をせずに時間を過ごせないのか?
すると隣りにいるWatsonは「現代の姿」に変わっていた。
JW: Sherlock、僕の妻がどこにいるか教えろ、偉そうにもったいぶりやがって、殴って気絶させるぞ!
Holmesは混乱して彼を見返したが、Watsonはいつの間にかいつもの姿に戻って彼をにらみつけていた。
JW: Holmes!どこなんだ?
SH: 閉鎖された教会だ。彼女は解答を見出したと考えた、そして、だからこそ、非常に危険極まる道へ、自ら進んでいってしまった。
顔を背けて言い添える。
SH: すばらしい妻を選んだもんだな。
馬車は人里離れた教会へ向かっていった。到着した二人が廻廊を駆け進んで行くと、柱の陰にMaryが隠れて待っていた。二人の前に姿を現したMaryを見てWatsonは飛び上がった。
JW: 何してるんだ?!
MW: (建物の奥を示しながら)見つけたのよ。
遠くから聖歌が聞こえてきて三人は話を止めた。Maryが声のする方へ二人を誘導する。進む先には、二つの小さな金属の鉢に火が焚かれ、床几の上に置かれていた。
JW: (小声で)これは何なんだ、Mary?
Maryが振り返って小声で応える。
MW: これが心臓部よ、John、陰謀の心臓部なの。
三人はアーチ形天井のある場所へ進んでいく。ラテン語の響きを持った聖歌はより大きく聞こえ、女性によって唱えられていた。通路には火の燃える鉢が置かれている。Maryは振り返って、二人についてくるように示す。そして石で装飾的に造られた窓へ辿り着いた。MaryとHolmesは二つある窓の一方へ寄り、Watsonはもう一方の窓から先を見つめた。隔たった先にある通路を通り過ぎていく多くの姿が見える。その人物たちはみな全身に藍色のローブを纏い、天辺の尖った頭巾で顔を隠している。その姿はKKKを髣髴とさせた。
JW: (小声で)おいおい、何なんだ、ここは?(Maryへ顔を向け)それに君って奴はここで何をしてるんだ?
MW: 調査をしていたの、Holmesさんに依頼されて。
JW: Holmes、君の仕業か?!
MW: ああ、違うの。賢い方の。
Holmesはその言葉に動じる様子を見せなかった。
MW: こんな企みをひとりで行えるわけがないと、わたしには思えたの。Ricoletti夫人には協力者がいるはず-友人が協力してるんだ、って。
SH: でかしたぞ、Mary。(彼女へ視線を向けたHolmesは、先程の彼女の言葉に遅れて反応する)「賢い方」?
MW: おっと。
JW: (窓の先を見ながら)君は離れていってしまったのかと。
Holmesが眉をひそめて視線を向ける。
JW: 僕らはお互いを蔑ろにしていたのかもしれないな。
SH: でも、出ていったのは君の方だ。
JW: (目を閉じて)Maryに話していたんだ。
WatsonはMaryへ顔を向ける。
JW: Mycroftの下で働いてるのか?
MW: やんちゃな弟を見守っていたいんですって。
SH: それでスパイをさせたのか。(Watsonを一瞥して)君の妻は看護婦にしては随分腕利きだと思い至らなかったのか?
MW: それはないわね。(ニヤリとして)だってこの人は看護婦がどんなに優秀か心得ているもの。
Watsonはわずかに笑みを浮かべる。
MW: (Holmesへ)いつから気づいてた?
SH: 今になって、恐れながら。
MW: (彼の方へ向き)のろまな弟でいるのは大変でしょうね。(微笑む)
SH: もう時間だ。おしゃべりは充分だろう。集中するんだ。
三人は窓の向こうへ意識を戻す。
MW: ええ、そうね。これは何なの?何を成し遂げようとしているのかしら?
SH: 行って調べてみようじゃないか?
そう言ってHolmesは走り出し、Watson夫妻も後に続く。アーチ型天井を支える柱の根元にはそれぞれ四角く堀があり、中に火が焚かれている。それらを通り過ぎた先に小さな礼拝室があり、先程見たローブ姿の人物たちが集まって聖歌を唱えていた。その背後にある入り口に辿り着いたHolmesは片側に金属製の銅鑼があるのを見つけると、木槌を手に取って大きく打ち鳴らした。聖歌は止まり、Holmesに注目が集まる。
SH: (木槌を掲げながら)失礼。銅鑼には目がないもので。(ローブ姿の人物たちへ向き)それに劇的な演出も、かな。
MW: あら、そうだったの(!)
SH: (前へ進みながら)その点については、君たちも同じ趣味を持っているようだがね。
Holmesが話しながら間を歩いてくが、人物たちは身動きもせず、静寂を保っている。
SH: お見事だ。
Maryが緊張した面持ちで夫の様子を窺うと、彼は畏怖の念に打たれて立ち尽くしていた。
SH: 最高の演劇。壮大なスペクタクルに拍手喝采だ。
笑みを浮べて振り返り、ゆっくりと数歩だけ進んで立ち止まる。
SH: Emelia Ricolettiは自殺したが、どうやら死からよみがえり、夫を殺害したようだ。ではどのようにして行われたのか?出来事を順に追ってみよう。
Emeliaがバルコニーに立ち、路地を逃げ惑う人々に銃を向けている場面。
SH(声): Ricoletti夫人は非常に効率よく人々の注目を集めた。
花嫁: あなた!(発砲する)…あなた?!(声を抑えて)…わたし?
銃を持つ左手を下ろし、右手に持った銃を自分の顔に向け、口を大きく開く。
SH(声): 夫人はリボルバーを口に向けるが、実際はもう一方の銃で地面を撃った。
Emeliaは下げている左手の銃で発砲する。
SH(声): 共犯者がカーテンに血を吹き付ける…
室内に潜んでいた人物がEmeliaの背後にあるレースのカーテンに血を吹き付ける。
SH(声): かくして夫人の偽装自殺は、路地にいる怯えた人々に目撃されることとなった。
Emeliaは後方の室内に向かって倒れる。その身体が着地したカーペットの上、すぐ傍らに、彼女と同じ花嫁衣装姿で、同じメイクアップを顔に施した女性が、目を閉じて仰向けに横たわっていた。Emeliaはすぐに立ち上がる。
SH(声): Ricoletti夫人に酷似させた代わりの遺体が残され、後に死体安置所へ移送される。蛆のわいた自殺などスコットランド・ヤードは構いやしない。
Emeliaは立ち去り、室内に潜んでいた複数の人物たちが代わりの遺体を先程Emeliaが倒れた位置に合わせて置き直す。
SH(声): その間に本物のRicoletti夫人は姿を消す。
普段着に着替えたEmeliaは、不気味な化粧はそのままに、帽子からレースのベールを下ろして顔を隠し、建物を出ると、路地を進んで歩き去る。
SH(声): そしてここからが本当に賢い場面だ。Ricoletti夫人は辻馬車の御者を説き伏せ-知り合いだったのだろう-夫が行きつけにしていた阿片窟の外で彼を襲う。完璧なドラマには完璧な舞台を。
花嫁衣装に戻り、顔をベールで隠したEmeliaは夫にショットガンを向ける。
Ricoletti: 誰なんだ?一体何が目的だ?
Emeliaがベールから顔を現し、微笑みかけるとRicolettiは恐怖に慄いた。
Ricoletti: Emelia?!
花嫁は夫を撃ち、ベールで顔を隠して振り返る。どこかから異常を感じた男性が助けを求める声がする。
SH(声): 完全で確実な身元確認。
駆けつけたRance警官が花嫁を見て立ちすくんでいる。周囲では「人殺しだ!人殺しだ!」と誰かが叫んでいる。
SH(声): 故Ricoletti夫人は死の淵からよみがえった…
花嫁の後頭部に出来た銃撃の痕を警官ははっきりと目にする。
SH(声): …ちょっとした特殊メイクと共に、それはまさに「怨霊」だ。
Emeliaは霧の中へ姿を消す。通りを進んだ先でマンホールの上に立ち止まると、ブーツのヒールで二回、下を叩いた。一歩下がって待つと、中に潜んでいた共犯者がマンホールの蓋を押し上げて、道の上にずらしていく。しばらく立ってRance警官は花嫁が姿を消した場所に駆けつけたが、既にその足元のマンホールは閉じられていた。
SH(声): やるべきことはあとひとつ。
花嫁姿のままベッドに横たわっているEmeliaの口へ、誰かがピストルを向けている。
Emelia: いいのよ。同情せずに。
頭を枕に横たえ、大きく口を開く。銃声が響き渡る。
Holmesは礼拝室の中を歩きながら先を続ける。
SH: 残された作業は死体安置所の遺体を本物のRicoletti夫人と取り替えること。
死体安置所にあるEmeliaの遺体が鎖で台に縛り付けられている。
SH(声): こうすることで、誰が遺体の身元確認を手掛けようと…
遺体のシートを剥ぐとEmeliaの顔が現れる。
SH: …絶対確実に本人だという結果となる。
MW: でもどうしてそんな-命まで犠牲にして?
SH: 大義遂行における殉教者、戦争における自決者-間違いなく、これは戦争だ。人類の半分と、もう半分の闘いなんだ。
歩を進めながら左右に退いたローブ姿の人物たちを眺める。
SH: 見えざる軍隊は我々のすぐ身近にいる、家事を押し付けられ、子供を育て、蔑ろにされ、蔑まれ、無視され、参政権もそれほど与えられずにいる。
人物たちのひとりが先の尖った頭巾を取り始め、他の者たちも後に続いた。現れたのは、すべて女性たちだった。
SH: …にもかかわらず、その軍隊は、人類そのものと同じくらいに古くから存在する不公平を正すという大義名分の下に蜂起する構えがある。そう、Watson、Mycroftの言った通りなんだ。これは我々が負けるべき戦争だ。
そう言って背を向けたHolmesはWatsonの発言に再び振り返る。
JW: 死が近付いていた。
SH: 誰に?
JW: Emelia Ricolettiだ。結核の明らかな痕跡があった。この世に長くはいられなかっただろう。
SH: だからその死を活用することを決意したんだ。アメリカの秘密結社について熟知していたので、その脅迫方法を利用し、政府の要人-非常に重要な人物であるEustace Carmichaelに過去の罪を突き付けて脅した。
女性のひとりが口を開く。
女性: あいつはアメリカ時代に彼女と知り合っていたの。
聞き覚えのある声にHolmesは振り向く。
女性: すべてを彼女に約束した…
発言者はHooperだった。だがローブに身を包み、頭巾を手に持っているHooperは、死体安置所にいた男性ではなく、「本来の姿」である女性に戻っていた。
MoH: …結婚、将来-あいつは彼女を言いなりにした挙句に捨て、無一文で置き去りにしたのよ。
SH: Hooper!
<“最後の誓い”、薬物反応テストをさせられたSherlockに何度も平手打ちをするMolly Hooperの様子が差し挟まれる。>
<そして、男装をしたHooper医師がEmeliaの遺体を乗せた台に向き合って立っている場面。>
礼拝室でそっと彼の名を呼ぶ。
MoH: Holmes。
JW: 言っておくけどな、Holmes、僕は騙されなかったぞ。
Holmesが振り返るとWatsonは自慢気に笑みを浮かべる。だが彼は視界に入ってきた別の女性が自分に向かって手を振っているのを見て目を見張った。それはあの生意気なメイドだった。
<食堂で主人に意見を述べるメイド。
Jane: どうしてわたしのことを書いてくれないんです?>
礼拝室にいるJaneは手を振るのを止めて他の人物たちの列に戻った。Holmesがニヤついている前でWatsonはきまり悪そうにしている。するとまた別の女性が進み出てきた。それは“三人のしるし”、“最後の誓い”に登場したJanineだった。(※)
Janine: EmeliaはRicolettiとなら仕合わせになれると思ったけれど、あいつも『人でなし』だったのよ。
Holmesは発言者の女性を見て、目を見開いた。
<Johnの結婚式で一緒に過ごしたJanine。そして二人は221Bで口づけを交わす。だが彼女が部屋を出るとSherlockの顔から笑みが消えた。>
礼拝室でJanineは話を続ける。
Janine: Emelia Ricolettiはわたしたちの友人だったの。あいつが彼女にどんな仕打ちをしたか見当もつかないでしょうね。
Holmesはまだ混乱したまま彼女を見つめている。
JW: だが…その花嫁、Holmes。僕らも見たぞ。
SH: (彼の方へ向き直り)ああ、Watson、そうだ。ガラスの割れた音のことだが、あれは窓ではなかったんだ。
Watsonは訝しげに眉をひそめる。
SH: 古典的な演劇のトリックだ。
HolmesとWatsonがCarmichael邸の外に立っている。WatsonがHolmesの腕を引く。
JW: こんなことあり得ない、Holmes、あり得ない!
SH: ああ、あり得ない。
SH(声): ペッパーズ・ゴーストという。(※)
Carmichael邸から男性の叫び声が聞こえる。そのときHolmesとWatsonは後ろへ向かって浮遊していく花嫁の姿を目撃するが、実は二人と花嫁の間には巨大なガラスの板が設置されていたのだった。
SH(声): 単純に、ガラスが、生きた人間の姿を反射していたんだ。
実際の花嫁は二人の視界を外れた数歩離れた場所にいた。彼女が走り去ると、黒ずくめの格好をした二人の女性が台に設置されていたガラス板を運び去るために駆け寄った。
SH(声): 惜しいことにそのガラスを撤去する際に壊すという失敗をしてしまった。
持ち上げられたガラス板は粉砕してしまい、女性たちは飛び散る破片にたじろぐ。
SH: (礼拝室をゆっくりと歩いていきながら)周りを見ろ。この部屋には花嫁がたくさんいる。一度よみがえらせれば、誰でも成り代わることが出来た。
そこで様々な「花嫁殺人」の記事が思い起こされる。
SH: 「怨霊」-悪意に満ちた人物を恐怖に陥れるという伝説で、罪を犯しながらその清算が滞っている『人でなし』共のもとに化けて出る幽霊だ。
Carmichael邸の迷路園。Carmichael夫人とEustace卿は目前に浮遊してくる花嫁に恐怖している。Eustace卿は白目を剥いて倒れる。
SH(声): 復讐の女神たちは奮起した。
Carmichael夫人とEustace卿の前から別の場所へ姿を消した花嫁が顔を隠していたベールを上げると、それはJanineだった。白く塗った顔には、口が真っ赤に裂けたように口紅が塗りたくられている。不気味な顔で満足気に笑みを浮かべる。
SH(声): 女性たちを、僕、…僕らは欺き、騙し…
Carmichael邸で、Watsonが恐怖に目を見開いて背後にいる花嫁の方へ振り返る。
SH(声): 女性たちを、僕らは蔑み、
花嫁が鉤爪で襲いかかるように両手を掲げ、Watsonは逃げ出す。
SH(声): …蔑ろにした。
玄関ホールへ逃げていくWatson。彼を脅かしたのは花嫁の衣装を纏ったHooperだった。ガラスを割られた窓から外へ出ていく。
Holmesは礼拝室で先を続ける。
SH: 一度抱いた着想は、消すことが出来ない。
わずかに視線が鋭くなる。
SH: これは一途な意志を持つ人物の成せる業であり、それはEustace卿の精神的残虐性を直接知る人物だ。ひた隠しにした秘密、だが親しい友人にのみ明かされた…
彼の背後に、花嫁衣装姿で顔をベールで隠した人物が歩み寄る。
SH: …Emelia Ricolettiも含まれていた…
ゆっくりと忍び寄る花嫁の足音が聞こえてくる。
SH: …彼女の夫が過去において不当に扱った女性だ。亡霊の存在を除けば、容疑者はただひとり。
そこでHolmesは背後に近づいてくる人物の方へ振り返る。ベールで顔が隠されているが、動じない。
SH: そうですよね、Carmichael夫人?
花嫁は足を止める。
SH: しかしながら、ひとつ些細なことが僕の腑に落ちない。なぜそこまでして犯そうとした殺人を、僕に阻止させようとしたのですか?
花嫁は応えない。
SH: ふむ?
花嫁は突然吹き出して笑い声を上げたが、それは女性の声ではなかった。ベールの下からHolmesを真似て話し出したその声は、Moriartyのものだった。
JM: 「僕には腑に落ちない」、「これは僕の腑に落ちない」、(自分の声に戻して)腑に落ちるわけがない。
Holmesは驚いて目を瞬く。
JM: 本当じゃないから。
うんざりしたかのように、いびきのような音を立てる。
JM: もう、Sherlock。
するとベールを両手で持ち上げて顔を見せた。口から頭を撃ち抜いたためか、唇に乾いた血がこびりついている。Holmesは息を呑む。
JM: いないいないばあ。
すると顎が痛むかのような仕草をして見せた。Holmesは大きな衝撃を受けている。
SH: そんな。お前じゃない。お前のはずがない。
JM: だから、もう、真面目な話ね。衣装とか、銅鑼とか。悪事の首謀者として言わせてもらえば、銅鑼なんかそんなに使わないから、特別な扮装だとかさ。
Holmesは眩暈がして立っていられなくなる。そのとき彼は閉じた目蓋の向こうから、Watsonがペンライトで彼の目を照らそうとしている様子をぼんやりと感じていた。聞こえてくるのはヴィクトリア時代のWatsonよりも、現代のJohnの声のように思われる。
JW: 一体どうしちまったんだ?
Holmesは懸命に目を開き、衝撃を抱き続けながらMoriartyを見つめる。
JM: もういいだろ、こんな馬鹿げたこと?ゴシック的だって?もう狂気の沙汰だろ?腑になんか落ちないよ、Sherlock。本当じゃないんだから。(ささやき声で)何にも。
Holmesは意識の向こうに、自分を覗き込むWatsonの姿を感じる。再び声が聞こえる。
JW: 何のことを言っているんだ?
JM: (ささやき声で)みんな心の中のこと。
Holmesが目を瞑るとJohnの呼びかける声が聞こえる。
JW: Sherlock。
ペンライトが目を照らし、Watsonの声が聞こえる。
JW: Holmes!
JM: (ささやき声で)夢を見ているんだよ。
Holmesは目を見開き、喘ぐように大きく息を吐き出す。
MW: 夢でも見てるのかしらね?
…現代でSherlockの意識が戻る。Maryは少し離れたところで彼を見ていて、Johnはペンライトで彼の右目を照らしていた。Mycroftは彼が横たわるベッドの傍らに腰掛けている。そこはもう飛行機の中ではなく、Sherlockは病院のベッドに寝かされていたのだった。
MH: (厭味な口調で)目覚めたか。もう戻ってこないのかと思いかけたよ。確認させてもらうが、これはお前のいうところの「調整した使用」なのかね?
彼らの背後を白衣を着た女性が通り過ぎていく。
SH: (少し弱った声で)Emelia Ricoletti。どこに葬られたのかを知りたい。
MH: な、120年も前のことを?!
SH: (Johnが押し戻そうとするのに逆らって起き上がりながら)そうだ。
MH: 数週間かかるぞ、記録が残されていたとしても。私の情報源にしたって…
MW: (携帯電話を見ながら)見つけた。
※Janine
…このエピソードで彼女の名前は‘Janine Donlevy’となっているが、“His Last Vow”のときに劇中の新聞記事に載っていた名前は‘Janine Hawkins’だった。設定が変わったのか、詳細は不明。
※ペッパーズ・ゴースト
…「劇場などで使用される視覚トリックである。板ガラスと特殊な照明技術により、実像と板ガラスに写った「幽霊」を重ねて見せることで、効果を発揮する。実像と「幽霊」はぶつかることなく交差し、照明の調整により「幽霊」を登場させたり消したりすることができる。イギリスの王立科学技術会館(Royal Polytechnic Institution、現在はウェストミンスター大学(University of Westminster))の講師(のちに館長)であったジョン・ペッパー(John Pepper)に由来する。」-Wikipedia「ペッパーズ・ゴースト」より