忌まわしき花嫁 3

221B。肘掛け椅子に腰掛けているHolmesとWatson、その二人に向かい合って依頼人らしき上品な身なりの女性がダイニング・チェアに座っている。

Carmichael夫人: Holmes様、ご相談があって参りましたの。

SH: お易い御用です。

Carmichael夫人: お助けを。

SH: それは容易とは限りませんな。(※)

Carmichael夫人: 何かが起きましたの、Holmes様-何か…異常で…恐ろしいことが。

SH: あなたは運が良い。

夫人は思わず耳を疑った。

Carmichael夫人: 「運が良い」?

SH: (夫人へ笑みを向け)私の専門分野ですから。

そう言ってWatsonにも微笑みかける。

SH: これは非常に期待できるぞ。

JW: Holmes…

Holmesは真面目な態度へ戻り、Carmichael夫人へ問いかける。

SH: 何にそれほど悩まされていらっしゃるのか、お話しください。

Carmichael夫人: わ、わたくしは一体どうすべきか、随分考えましたの、それで、その、あなたのお兄様と主人が知り合いだということを思い出したものですから、もしかしたら…

夫人は口ごもる。Holmesは詮索するように首を傾げた。

Carmichael夫人: 正直申し上げますと、あなた様のお取り扱いになる範囲を超えているのではないかと、Holmes様。

SH: ほお?

Carmichael夫人: ああ、神様。すがるべきなのは聖職者かもしれませんわ。

HolmesとWatsonは訝しげに視線を交わした。

 

Carmichael邸。広大な食堂でEustace Carmichael卿と夫人、そして10代前半くらいと思われる息子と娘が揃って朝食を摂っている。

Eustace卿: ではお前の朝を邪魔するものは何なのかね?

妻に話しかけながら、機嫌が良さそうなEustace卿はお茶を飲んでいる。

Eustace卿: 「刺繍に使う輪っか」かな?帽子屋の予約が大変なのかい?

夫人は食事を続けながら答える。

Carmichael夫人:からかってるんでしょう、Eustace。

含み笑いをするEustace卿へ、従僕が歩み寄る。銀の盆に手紙とレターオープナーを乗せて運んできたのだった。最初の手紙を開封したEustace卿は、その中身を見て凍りついた。

Carmichael夫人:どうしたの?

Eustace卿は何も応えず、封筒の中を見つめている。

Carmichael夫人: Eustace?

返答がないことに何かを感じた夫人はナイフとフォークを置いて子供たちに声をかける。

Carmichael夫人: Daniel、Sophie、外に行ってらっしゃい。

Sophie: でもお母様…

Carmichael夫人: 言う通りになさい。さあ、早く。

子供たちは席を立ち、部屋から出ていった。Carmichael夫人も立ち上がり、夫のそばへ歩み寄ると、彼の手からそっと手紙を抜き取った。封筒の中身を手のひらに出してみると、それは五つのオレンジの種だった。(※)夫人は笑い出す。

Carmichael夫人: Eustace!これは一体何なの?

笑っている夫人をEustace卿は怯えた表情で見上げ、恐怖に満ちた声で告げた。

Eustace卿: 死。

Carmichael夫人: え?

Eustace卿: 死ぬのだ。

Eustace卿の目には涙が溢れていたが、彼は感情を抑え、無理に笑おうとする。

Eustace卿: いや、なんでもない。そう、なんでもないんだよ。勘違いだ。

そう言ってEustace卿はレターオープナーを盆に戻した。種と封筒を下ろし、夫人は夫へ屈み込んで彼の顔を手で包み込む。

Carmichael夫人: あなた、顔色がとても悪いわ。

Eustace卿は不意に立ち上がり、言い含めるようにして妻に告げた。

Eustace卿: なんでもない。

部屋を立ち去る夫を夫人も追いかける。

Carmichael夫人: Eustace…

 

221B。

SH: 封筒はとっておきましたか?

Carmichael夫人: 主人が処分してしまって…

Watsonが眉をひそめて、先を促す。

Carmichael夫人: …でも何も書いてありませんでしたわ、差出人や、住所ですとか。

SH: ご主人はアメリカにいらしたことは?

Carmichael夫人: いいえ。

SH: ご結婚なさる前もですか?

Carmichael夫人: それは、存じ上げませんわ。

SH: ふむ。ではその魅力的な物語の先を続けてください。(両手を口元で合わせる)

Carmichael夫人: ええと、その出来事があったのは月曜日の朝でしたわ。二日後の水曜日に、主人はその女を見たのです。

JW: 誰を?

 

夜のCarmichael邸。Carmichael夫人がふと目を覚ましてベッドを見渡すと、夫が横にいないことに気付いた。頭を持ち上げて部屋の中を探すと、彼は少し離れた位置にある窓のそばに、寝巻き姿で立ち尽くしていた。

Carmichael夫人: Eustace?

怯えた様子で窓の外を見つめている夫を不審に思い、夫人はベッドから出て歩み寄った。そして彼の腕を取ろうとすると、Eustace卿は弾かれたように振り返り、妻の身体を掴んだ。恐怖に憑かれたように泣きながら訴える。

Eustace卿: あの女が来たんだ、Louisa。ああ、神よ助けたまえ、私は罪から逃れられない。

Carmichael夫人: 誰が来たっていうの?

Eustace卿はただ泣くばかりで答えない。

Carmichael夫人: Eustace、わたし怖いわ。

するとEustace卿は夫人の身体を強く掴んで、窓の外を見るように促した。

Eustace卿: 見てみろ!見ろ!

夫人は窓の外を見るが、霧に包まれた庭があるばかりで誰の姿も見当たらない。Eustaceは泣き続ける。

Eustace卿: あの女がいるだろう?

Carmichael夫人: い、いいえ。誰もいないわ。

庭には生け垣で出来た広大な迷路園があり、霧が立ち込めていたが、それが薄まっても潜んでいる者の姿は見えなかった。再び庭を見たEustace卿はほっとしたように、夫人へ痛々しく微笑みかける。

Eustace卿: 行ってしまった。

そして泣きながら膝から崩れ落ちた。夫人も屈み込み、あやすように夫を抱きかかえる。

Carmichal夫人: 何か隠し事をなさっているのね。これもそのひとつなの?一体誰だったの?

Eustace卿は顔を上げて夫人を見つめる。

Eustace卿: あの女だ。花嫁だよ。

 

221B。Watsonは目を見開いてHolmesを見た。Holmesも視線を返してから夫人へ向き直る。

SH: あなたは何も見なかった?

Carmichael夫人: 何も。

SH: ご主人は話しましたか…

Carmichael夫人: 何も-今朝までは。

 

再び、別の夜のCarmichael邸。Carmichael夫人はまた目を覚まし、夫の姿がないことに気付く。起き上がってあたりを見回す。その頃、Eustace卿は寝巻きの上にガウンを羽織り、足元はスリッパを履いたままで、家の外へ出ていた。庭の迷路園へ向かっていく。そしてCarmichael夫人も同様に寝巻きとガウン姿、スリッパを履いた足で外へ飛び出し、夫の名を呼びながら後を追った。

Carmicharl夫人: Eustace!

迷路園へ向かっていた夫人は、地面に何かを発見して立ち止まった。それは脱げ落ちたと思われるEustace卿のスリッパだった。夫人は前に進みながら夫の名を叫ぶ。

Carmichael夫人: Eustace?!

迷路園へ急ぐ。

Carmichael夫人: Eustace?

迷路園の中の道を、何度か曲がりながら先へ進む。

Carmichael夫人: Eustace!

夫人は途中で地面につまずいてしまう。

Carmichael夫人: ああ!

手を膝を地面についてしまった。

Carmichael夫人: もう!

ひざまずき、すりむいた手を見下ろしている夫人の背後で、少し離れた距離にある交差した道を、花嫁の姿が横切った-夫人はそれに気づかず、切迫した声で夫を呼ぶ。

Carmichael夫人: Eustace!どこにいるの?わたしよ!

するとどこからか女性の歌声が聞こえ出し、夫人は後ろを振り返った。

花嫁: (画面外から)♪わたしを忘れないで…わたしを忘れないで…

夫人は立ち上がる。

花嫁: (画面外から)♪憶えていてほしいの…粉挽きの女を…

夫人が声のする方へ向かい、角を右へ曲がると、Eustace卿が背を向けて立っていた。その先は行き止まりになっている。そして彼の前にはベールで顔を隠した花嫁が立ち、手を前で組んでいた。Carmichael夫人はゆっくりと前へ進み、夫のすぐ後ろに歩み寄る。Eustace卿は死人のように青ざめた顔で花嫁を見つめていた。

Carmichael夫人: 誰なの?答えなさい!あなた誰なの?

花嫁は右へ少し首を傾げたが、何も答えない。Carmichael夫人は夫の右腕を掴み、自分の方へ身体を向かせる。

Carmichael夫人: Eustace!話して!

夫の両腕を掴み、そっと揺さぶってみるが、彼はぼんやりと彼女を眺めるばかりだった。

Carmichael夫人: お願いだから!

身体を揺さぶられ、頬を打たれて、Eustace卿はようやく、わずかに意識を戻した。

Eustace卿: その…女は、Emelia Ricolettiだ。

意識を保つのがやっとの様子で、彼は笑いながら泣き出しそうになっている。夫妻が振り返ると、花嫁はまるで地面の上を滑っているかのように、立ったままで二人の方へ近づいてくる。Eustace卿は絶望的に叫びだす。

Eustace卿: 違う。そんな。違う!

花嫁は少し離れた位置で止まった。

Eustace卿: 助けてくれ!

花嫁: 今夜、Eustace Carmichael、あなたは…死ぬ…でしょう。

すると花嫁は両手を上げて顔を覆うベールを持ち上げ始めた。しかしその顔が露わになる前にEustace卿は白目を剥いて倒れてしまった。夫人は叫び声を上げて夫の身体を受け止め、地面に横たえる。目を離したのはわずかの間だったにもかかわらず、花嫁は庭から姿を消していた。

 

221BではHolmesが口元で手を合わせたまま考え込んでいた。

JW: (画面外から)Holmes?

SH: 静かに、Watson。

JW: でもEmelia Ricolettiって、あの花嫁が!

Carmichael夫人: ご存知でいらっしゃるのね。

SH: お許しください。Watsonは躁病患者さながらに、わかりきったことを口走ってしまう癖がありまして。

Holmesが咎めるように視線を向けると、Watsonは険悪な目付きで彼を見返した。

SH: (Carmichael夫人へ)お訊きしますが、ご主人の今朝の様子は?

Carmichael夫人: このことについて話すのを拒んでいますわ。家を離れるようにしつこく勧めなくてはなりませんでしたの。

SH: いけません!今の場所を離れてはいけません!

Carmichael夫人: まあ、危険だと思いませんの?

SH: ああ、いいえ、何者かがご主人の命を狙っているのは確実ですから、我々には好都合です。餌が無ければ罠は仕掛けられない。

そう言ってHolmesが微笑みかけると、夫人は怒りだした。

Carmichael夫人: 主人は餌なんかではありませんわ、Holmes様。

SH: ええ。しかし我々がうまくカードを切れば違ってくる。

Watsonは怪訝そうに眉を上げる。

SH: よく聞いてください、あなたはすぐにお帰りになってください。Watson先生と私は次の列車で追いかけます。一刻も無駄にはできません。Eustace卿は今夜死のうとしています。

JW: Holmes!

SH: …我々は…たぶん阻止します。

JW: 「絶対に」。

SH: 「絶対に」阻止します。

困惑しながら、Carmichael夫人はうなずいた。

 

※Eustace Carmichael卿

…原作「アビ屋敷」から。Eustace Brackenstall卿が自宅で何者かに襲われて亡くなり、HolmesとWatsonが呼び出される。Brackenstall夫人も椅子に縛り付けられた状態で発見されたことや、その他の現場の様子から、警察は強盗による犯行だと断定するが、Holmesは違和感を抱く。綿密な調査と優れた観察力により発見した「些細な事実」をもとに推理を働かせ、裏に隠されていた真相を暴く。

※五つのオレンジの種

…原作「オレンジの種五つ」はシーズン1の「大いなるゲーム」でも取り上げられている。 依頼人の伯父と父の元へ彼らがかつて所属した秘密結社(KKK)から脅迫を意味する「オレンジの種が五粒入った手紙」が送られ、殺害されてしまう。

 

※「お易い御用です」「それは容易とは限りませんな

…原作「オレンジの種五つ」で、Holmesは依頼人に相談を持ちかけられた際、同様に受け答えしている。

 

 

ディオゲネスクラブ。Mycroft Holmesが応接室にいる。

MH: 当然ながら、弟が事件を扱うことになった。そこで君に監視を依頼したいのだが、私のために任務に当っていることを、あいつに勘付かれてはいけないよ。問題ないかね、Watson?

背後にMary Watsonが進み出て、誇らしげに笑みを浮かべる。

MW: ご安心ください、Holmes様。

 

 

HolmesとWatsonは列車に乗っていた。二人は個室の窓際に向かい合って座っている。Holmesが目を閉じているのに合わせ、Watsonは窓の外を眺めて黙っていたが、やがて連れに向かって話しかけた。

JW: 君はまさか…

SH: 違う、君も止した方がいい。

JW: まだ何も言ってないじゃないか。

SH: (目を閉じたまま)この事件には何か心霊現象が関わっていると言おうとしたんだろう、だから一笑に付したんだ。

JW: でも花嫁だぞ!Holmes、またEmelia Ricolettiだ。死んだ女が、地上に現れた!

Holmesは重いため息をついて目を開けた。

SH: 君には驚かされるよ、Watson。

JW: 僕が?

SH: いつからそんなに想像力豊かになったんだ?

JW: それは恐らく、節操のない麻薬中毒者が紳士的な英雄であると一般読者に認めさせることから始まったんだろうな。

SH: なるほど、なら言わせてもらうが、なかなかの出来だったよ。(しばし考え込みながら視線を落とし、再び顔を上げる)とは言え、この世に亡霊なんてものは存在しないから安心していい。

Watsonはわずかにうなずいて、窓の外を眺めた。Holmesは再び視線を落とし、つぶやいた。

SH: …自分たちのために作った亡霊を守る。

目を閉じて後ろにもたれるHolmesにWatsonは声をかける。

JW: え、何て言ったんだ?

Holmesは目を閉じたまま答えない。

JW: 自分たちのために作った亡霊?どういうことだ?

やはり何も言わないHolmesに、Watsonはため息をついた。

 

 

Carmichael邸。Eustace卿が広い客間に設置された煖炉の前で佇んでいる。Watsonはそこに向かい合って立ち、Holmesは部屋の中を行きつ戻りつしている。

Eustace卿: 夢遊病だ。

JW: 何とおっしゃいました?

Eustace卿: 眠っている間に歩くということだ。よく知られてるじゃないか。君は医者なんだろう。悪い夢を見たのだ。

JW: お受け取りになられた封筒の中身もですか?

Eustace卿は笑い飛ばそうとしている。

Eustace卿: まあ、趣味の悪い冗談だろう。

JW: 奥様はあなたのご様子を見て、そうはお感じになられなかったようですが。

Eustace卿: あいつはヒステリックでね、いつもの妄想だよ。

SH: 違う。

Eustace卿: 失礼?何と言ったのかね?

SH: (足を止め)違います、奥様はヒステリックではありません。優れた知覚と高い知性を持ち合わせた女性です。

Eustace卿: オレンジの種に恐怖を感じるなんて。

SH: (歩み寄りながら)奥様は、他の人間が全く価値を見出すことができない世界を見ることができるのです。

Eustace卿: (嘲るように)そうなのかね?それをどうやって「推理」したのかな、Holmes君?

SH: あなたを選ばれたから。

Watsonは微笑んだ。

SH: 奥様は理由を察知する能力がおありだったんだと思います。

Eustace卿は腹を立ててHolmesへ詰め寄ろうとした。Watsonもそれを察知して間に入ろうとしかけたが、Holmesが再び話し出すとEustace卿は踏みとどまった。

SH: 今夜あなたの命をお守りするために最善を尽くしましょう、ですがまず、Ricolettiの件にどのような関わりをお持ちなのか、お話しいただけると有り難いのですが。

Eustace卿: (わずかに躊躇いながら)Ricoletti?

SH: はい。詳細に願います。

Eustace卿: (やはり躊躇いながら)そんな女は知らん。

SH: なるほど。「女」だとは申し上げなかったのですが。お見送りは結構です。

Eustace卿は苦しそうに唾を呑み込む。

SH: 明日の朝にまたお会いできれば良いですね。

HolmesとWatsonは部屋を立ち去り始める。

Eustace卿: 断る!

SH: では残念ですが事件を解決しなければなりませんね。失礼します。

二人は玄関ホールへ進んだ。Holmesはポケットから手帳を取り出して、メモを書き始める。

JW: まあ、よく頑張った。

玄関ホールへやって来たひとりの従僕へ、Holmesが声をかける。

SH: これをCarmichael夫人へ渡してもらえないだろうか?

手帳に書いたメモを従僕へ渡す。

SH: ありがとう。よろしく頼む。

従僕: かしこまりました。

そして再びHolmesとWatsonは玄関を進み出した。

JW: あれは何だ?

SH: Carmichael夫人には今夜ひとりで寝てもらう、ひどい頭痛がすると偽って。家中の扉や窓はすべて施錠する。

二人はコート掛けからコートを取って着始める。

JW: なあ、君は幽霊が…

Holmesは咎めるような視線を向ける。

JW: …えっと、花嫁はEustace卿を、また外に誘い出すということか?

SH: (コートを着ながら)きっと、な。他になぜ不吉な脅しなど?「今夜あなたは死ぬ」。

JW: うむ、花嫁を追いかけたりしないかな?

SH: どんな行動を取るか言い当てるのは難しいな。罪の意識が魂を蝕んでいる。

Holmesはコートから手袋を取り出す。

JW: 罪?どんな?

SH: 過去の何か。オレンジの種はそれを思い出させるものだ。

JW: (手袋をしながら)冗談じゃない。

SH: 本気さ。オレンジの種は殺害をもって復讐するという伝統的な警告なんだ、起源はアメリカ。Eustace卿はそれをよく知っている、罰せられる理由を知っているのと同様に。

二人は帽子を取ると玄関ポーチに出ていく。

JW: (帽子を被りながら)Emelia Ricolettiに関する何か、か。

SH: 恐らく、な。我々はみな過去を持つ、Watson。

JW: ふむ。

二人は扉の外で、並んで立ち止まる。

SH: 亡霊-晴れの日を引き立たせる影の存在。Eustace卿は自分が狙われていることを知っている。

Watsonは思わず後ろへ視線を投げる。

SH: 殺人以上に恐れる何かがある。亡くなったRicoletti夫人が蘇り、自分を地獄へ引きずり込むと信じているんだ。

考え込みながらあたりを見渡していたWatsonは再びHolmesへ問いかける。

JW: そんな馬鹿げたことあるか?

SH: ああ、そうだ。リボルバーを持ってきたか?

JW: 亡霊退治の役に立つかね?

SH: たしかに。持ってるのか?

JW: ああ、もちろん。

SH: では行こう、Watson、行こう。

Holmesは鹿撃ち帽を被る。

SH: ゲームは始まっている!(※)

そして二人は歩き出した。

 

※ゲームは始まっている

…原作「アビ屋敷」で、寝ているWatsonをHolmesが起こし、「ゲームは始まっている」と告げ、出掛ける準備をさせる。

 

 

夜。Carmichael邸の敷地内に設けられた温室。薄暗い室内で、屈みこんでいたWatsonが不満気な声を漏らしながら立ち上がる。

SH: 姿勢を低くしろ、Watson、頼むよ!

JW: (すぐに座る)すまん。足がしびれて。

顔をしかめながら脚をさすっている。

JW: なあ、明かりは、まだ点いてるのかい?

Holmesが母屋へ視線を向けると、窓のひとつから明かりが漏れていた。

SH: ああ。

そう答えた途端に、その窓から明かりは消えた。

SH: Eustace卿は就寝。

別の窓に注目すると、先程まで灯されていた明かりが消された。

SH: Carmichael夫人も。一家は眠りに就いた。

Watsonは疲れた身体を奮い起こすように首を振り、長く息を吸い込む。

JW: うーん、やれやれ、今夜は人生で一番長い夜だ。

SH: 我慢しろ、Watson。

Watsonはポケットから時計を取り出して時刻を確認する。

JW: 真夜中か。

時計をしまって話し出す。

JW: なあ、僕らがこんな風に一緒にいるなんて珍しいよな。

SH: そう願いたいね。膝の上に殺人犯とは。

そう言って笑みを浮かべるHolmesへ、Watsonも笑みを返した。

JW: ふむ。親友二人で、話したり、愚痴をこぼしたり…

Holmesへ視線を向ける。

JW: …男同士で、か。

その言葉にぎょっとしたHolmesは、落ち着かない様子で母屋の方へ視線を戻した。

JW: あの人は大したもんだ。

SH: 誰が?

JW: Carmichael夫人。

SH: 女性は君の担当だからな、Watson。君に任せるよ。

JW: いいや、君はあの人を気に入ったんだろう。「優れた知覚の持ち主」だって。

SH: そして見事な土踏まずを持っている。部屋に入ってきた時すぐに気付いた。

JW: はあ。あんな奴にはもったいない。

SH: そう思うか?

JW: 君が、だろ。僕にはわかる。

SH: 生憎だが、僕は何の意見も持ち合わせていない。

JW: いや、そんなことない。

SH: (一瞬躊躇って)結婚など、僕が思考を巡らせる対象には含まれていない。

JW: ええ、どうして?

SH: 今夜は一体どうしたんだ?

JW: (鋭い口調で)君が身に着けている時計、中に写真を入れているだろ。前にチラッと見たことがある…

-Holmesの懐中時計、蓋の内側に女性の写真が収められている。

JW: Irene Adlerだよな。

SH: (少し苛つきながら)チラッとじゃない。僕が寝入るのを待って見たんだろう。

JW: ああ、そうだよ。

SH: 気付いていないとでも思ったか?

JW: Irene Adler。

SH: 手強い敵、見事な事件だった。

JW: 美しい写真だ。

SH: なぜこんな話をしたがる?

JW: なぜそんなにひとりでいたがる?

SH: 気は確かか、Watson?

JW: 質問が立ち入り過ぎているとでも?

SH: ウィーンの精神分析学者(※)じゃあるまいし、引退した軍医なんて、御免だね。

JW: Holmes、僕は対立するつもりなんて毛頭ないんだ、君のいちばんの親友なんだから。

SH: 認めてやろう。

JW: 僕はただ君と極普通の会話をしようと試みているだけなんだよ。

SH: (断固として)勘弁してくれ。

JW: (負けずに断固として)なぜひとりでいたがるんだ?

SH: もし君が痴情のもつれについて口にするのならな、Watson-僕にはそれが恐ろしいが-以前何度も説明したように、すべての感情を僕は嫌悪する。そんなものは精密機器に混入した砂粒で…

SH・JW: (同時に)…「レンズに入ったひび」だ。

JW: そうだ。

SH: ほら、君だってわかってるんだろ?前に言ったじゃないか。

JW: 違うね、僕が書いた言葉だ。君はストランドから引用している。(※)

SH: まあ、そのままだ。

JW: 違う、僕の言葉であって、君のじゃない!あれは僕が世間に知らしめた君の人物像だ。心ではなく頭脳で考える、計算する機械。そう僕が書くと、Holmes、読者はそれを鵜呑みにする。だが僕はそんな風に思っていない。

SH: ふん、君の編集者に手紙を書いてやりたいね。

JW: 君は生きている、息をしている人間だ。生活をして、過去だってある。

SH: 何だって?!

JW: まあ、君だって過去には…

SH: 何だよ?

気まずそうに言葉に詰まり、Watsonは友人を指差した。

JW: わかってるくせに。

SH: さあね。

Watsonは唾を呑む。

JW: 経験、だよ。

SH: (腹を立て)リボルバーを貸せ。急に使いたくなったぞ。

JW: 畜生、Holmes、君は血の通った人間だ。感情がある。君だって…持っているはずだ…欲求を。

Holmesは憤激して目を閉じる。

SH: (歯を食いしばりながら)おお神よ。これほどまでに殺人亡霊が襲ってきてほしいと思ったことはないぞ。

JW: 友人として-君のことを…思い遣っている者として訊くが-何が君をそうさせた?

するとHolmesは目を開き、友人に同情的な眼差しを向けた。

SH: ああ、Watson。何のせいでもない。

どこからか不安げな、苦しんでいるような犬の鳴き声と、爪で引っ掻くような音が聞こえる。Holmesは音のする方へ顔を向ける。

SH: 自らの意志だ。

音は続いている。Holmesは困惑した表情を見せる。

SH: Redbeard?

JW: 大変だ!

Holmesが振り返るとWatsonは母屋の方を見ていた。視線の先、母屋のアーチが付いた通路の暗がりに、ほの明るい光をまとった花嫁の姿が、地面からわずかに上の位置に浮かんでいる。

JW: どうすればいい?

花嫁は観察者を手招きするように右手を挙げる。

SH: (無頓着に)おしゃべりでもしようじゃないか?

そしてHolmesは駆け出していく。Watsonは一瞬躊躇ったが、すぐに後に続いて母屋へ続く庭を走っていった。

 

※精密機器に混入した砂粒、レンズに入ったひび

…原作「ボヘミアの醜聞」の冒頭で、Watsonは「精密機器に砂粒が混入しても、高性能のレンズにひびが入っても、ホームズのような心に強い情緒が生まれるよりは、さして阻害にならないだろう」と綴っている。

※ウィーンの精神分析学者

…ジークムント・フロイト。「オーストリアの精神分析学者、精神科医。」「非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残した。それらは、現在においても次々と新しい角度から研究されている。フロイトの提唱した数々の理論は、のちに弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世紀以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えた。」-Wikipedia「ジークムント・フロイト」より