忌まわしき花嫁 2
辻馬車。HolmesとWatsonが並んで座り、Lestradeは向い合って腰掛けている。Holmesが警部に訊く。
SH: 死体安置所の当番は?
GL: わかってるくせに。
SH: (苛立たしげに)いつもあいつだ。
しばらくしてHolmesは地下にある死体安置所の扉を開けて中に入った。彼らが目にしたのは、全身を白い布にくるまれ、太い鎖で厳重に台へと縛られた遺体だった。
SH: 誰がこんな馬鹿げたことを!
それを聞いて部屋の後方にいたAndersonがやって来た。
Anderson: 皆の安全のためです。
Watsonは遺体頭部のシートをめくり、Emelia Ricolettiの顔を確認した。
JW: この女性は亡くなっているんだぞ、頭部も半分失って!誰も襲ったりしない!
Anderson: 旦那に言ってやったらどうです、(部屋の別の場所を指し示し)あっちで布にくるまれてますがね。
SH: 昨夜ライムハウスで何があったにせよ、死んだ女の仕業ではないということに関して間違いはない。
Anderson: おかしなことがあったんですよ。
SH: どんな…?
Anderson: (口ごもりながら)その…おかしな、ことが。
JW: 子供みたいな話しぶりだな。
SH: (遺体を見下ろして)これは明らかに男の仕事だ。どこにいる?
Andersonが答えを躊躇っていると、Holmesらの背後にある扉が開き、彼らは振り向いた。若いが堂々とした態度の男性が進み出る。(スーツ姿に、短く刈った茶色い髪と口髭-だがわたしたちの見慣れたあの人物-)
MoH: Holmes。
SH: Hooper。
MoH: (Andersonに厳しく)おい、仕事に戻れ。
Andersonはおどおどとうなずいて元の場所へ戻った。Hooperは台の反対側へ回り、遺体を挟んでHolmesと向き合う。
MoH: で、魔法のトリックで驚かせに来てくれたのかな。
SH: 僕の注意を引くようなことは何かあるか?
MoH: 何もないね、Holmesさん。気が済んだら帰ってくれ。
GL: Hooper先生、Holmes氏にここへ来るよう頼んだのは私だ。ご協力を。これは命令ですぞ。
Hooperは深く息を吸い、遺体を見下ろした。
MoH: 「興味をそそる特徴」が二つある、Watson先生の話でいつも君はそんな風に言っているが。
SH: 言わないね。
JW: 言ってるさ、実際かなりね。
Watsonはうなずくが、Holmesは不服そうに目を細める。
MoH: まず、これは間違いなくEmelia Ricolettiだ。明確に実証済み。本人であることに疑いの余地はない。
JW: じゃあ昨晩ライムハウスにいたのは誰だ?
MoH: それもEmelia Ricoletti。
JW: そんなわけない。死んでたんだ、ここにいた。
携帯用の拡大鏡を取り出したHolmesは遺体へ屈み込み、花嫁の顔を観察し始める。
MoH: 亡くなる数秒前に夫が断定した。嘘をつく理由はない。見間違うはずがない。
GL: 御者も認めている、間違いなく彼女だったと。
JW: だが同時刻に二つの場所にいられたはずがないだろう?
SH: (起き上がって)違う、Watson。厳密にはひとつの場所は亡くなったばかりの人間に限定される。
するとWatsonは何かをひらめいて指を鳴らした。
JW: Holmes! 双子だったんじゃないか?
SH: 違う。
JW: どうして?
SH: 双子なわけがないからだ。
GL: Emeliaは双子じゃなかった、姉妹もいない。兄がひとりいたが四年前に亡くなっている。
すぐに反論が浮かばずにWatsonは首を振って不満気な声を洩らす。
JW: うううん、双子がいるのを隠してたとか。
それを聞いたHolmesは困惑を隠せない。
SH: 何だと?!
JW: (念を押すように)秘密の双子?
Holmesは信じられない様子で彼を眺める。
JW: うん。どうだ?双子だということを隠してたとか?これはみんな仕組まれたことだったのかも。
SH: 受胎の瞬間からか?大した予知能力の持ち主だね、彼女は!双子なんかじゃない、Watson。
JW: では君の仮説は?
SH: (Lestradeへ)もっと核心へ、何が問題だ?
GL: わ、私には…
SH: なぜそんなに怯えている?あんたが僕のデキャンタに襲いかかりたくなるもっともな理由が今のところ見当たらない、なぜ死んだ女なんか逮捕したりする?
MoH: ああ、それは別の「興味をそそる特徴」だな。
Hooperが遺体の手を持ち上げ、人差し指の先をみんなに見せた。HolmesとWatsonはよく見ようと屈み込む。
JW: ああ。指に血痕か。こんなことは幾通りもの方法で起こり得る。
MoH: そうだ。
遺体の手を下ろし、Hooperは鋭い視線をHolmesへ向ける。
MoH: それだけじゃない。以前は付着していなかったんだ。
Holmesが起き上がるとLestradeはそばにある壁を示した。
GL: こっちも、な。
Lestradeが遺体から少し離れた場所にある壁へランタンの明かりを向けた。HolmesとWatsonも壁に歩み寄る。明かりで照らされた場所には、真っ赤な血で「YOU」と書かれていた。
バルコニーに立ち、路地にいる人々へ銃を向けている花嫁の場面が差し挟まれる。
花嫁: あなた!…あなた?…あなた?!
JW: Holmes?
SH: (壁に書かれた文字を見つめながらつぶやく)銃口をくわえ、脳天を撃ち抜いた…後頭部は吹っ飛んだ。「彼」はどうやって生き延びた?
その言葉に困惑したWatsonはHolmesへ注意する。
JW: 「彼女」だろ。
SH: (壁を見つめたまま)何て?
JW: 「彼」じゃない、「彼女」。
SH: (曖昧に)ああ、もちろんそうだ。
ぼんやりと壁を見つめていたHolmesは、はっと我に返った。いつもの口調で皆に告げる。
SH: さて、興味深い事件をありがとう。(Lestradeへ)解決したら電報で知らせる。Watson?
Holmesはその場を去っていったが、Watsonは再び遺体を指し示しながらHooperへ話しかけた。
JW: 銃での負傷が死因であるのは間違いないが、肺病の症状も顕著だ。検死を行う価値があるかもしれん。我々は出来る限りの情報を必要としている。
立ち去ろうとするWatsonへHooperが毒づく。
MoH: おや、彼は何も見逃さないんだろう、「父は逝ってしまった」か!
それを聞いたWatsonは立ち止まった。Hooperはニヤリとする。一瞬の間を置いて、Watsonは遺体を挟んで彼の方へ歩み寄る。
JW: (小声で)私だって自分のやり方で観察をしている。Holmesは他のことには盲目だからな。
MoH: (皮肉をこめて)そうかい?
JW: (小声で)ああ、そうだ。(鋭くHooperを見据えて)男の世界で頭角を現すために為さねばならぬことには驚かされる。
Hooperは何も言えずに、ただ彼を見返した。Watsonは帽子を取って挨拶し、また元に戻すとAndersonを一瞥してからHolmesの後を追った。ぐっと唾を呑み、黙って彼を見送るHooperへAndersonが問いかける。
Anderson: 何であんなことを言うんでしょう?
MoH: (厳しく)仕事に戻れ!
二人は辻馬車に乗ってどこかへ向かっている。
JW: なあ、Holmes?何か仮説があるんだよな。
SH: まだだ。深い海がある、Watson、深い海が。(窓の外を見つめながら)そして僕はもっと深く潜らねばならない。
「幽霊騒動」を取り上げた数々の新聞の記事。
『御者の証言-あれはRicoletti夫人だった』
『ウエスト・エンドで幽霊殺人!貴族の悲惨な最期』
『イズリントン 教会で海軍大尉の変死体見つかる』
『イースタム、マンチェスター運河にて “幽霊”の正体が明らかに?御者の証言-あれはRicoletti夫人だった』
『次の犠牲者は?悪名高き“花嫁”殺人』
『スコットランド・ヤード困惑-Hummersknot子爵が不審死-先週水曜日に起こったHummersknot子爵の謎めいた死は議会でも取り上げられた。スコットランド・ヤードのLestrade警部は貴族の死について明言を避けており…』
JW: 「数か月とかからず、このような奇妙な事件に再び遭遇することとなるとは-我々はまったく予期せぬ事態に見舞われていた」
221Bの居間と続きになっている部屋。Holmesは手に持った本を読みながらテーブルの前を行きつ戻りつしていた。テーブルの反対側でLestradeが椅子に腰掛けている。
GL: 今や五件だ、みんな同じ、どれもこれも。
SH: (本から視線を離さず)静かに、頼む。これは最高に重大なことだ。
GL: 何が?
SH: 黄道傾斜角(※)。理解しなければ。
GL: 何だ、それは?
SH: さあね、まだ理解しようとしているところだ。
GL: 君はあらゆることを知っているもんだと。
SH: そんなわけない、それは脳内スペースの甚だしい無駄遣いだ。僕は専門家だ。
GL: で、それの何がそんなに重大なんだ?
SH: (苛立ちながらLestradeへ声を荒げて)五件のくだらない事件の何がそんなに重大だ?
GL: くだらなくない!五人の男が死んだ!それぞれ自分の家で、床には結婚式のように米が撒かれ、壁には血で「YOU」と書かれてあった!
Lestradeは興奮して手を振り上げたが、Holmesは再び本へ視線を戻して歩き始める。
GL: あれだ、あれだよ、花嫁だ。どうやってか、また現れたんだ。
SH: (無関心に)解決した。
GL: (憤激して)まだ解決してない!
SH: (立ち止まって警部へ顔を向け)もちろん解決した、まったく単純だ。謎めいたRicoletti夫人の事件、死からよみがえった殺人鬼、それは主要なメディアで大々的に報道された。今や人々はその取るに足らない殺人を幽霊の仕業だと偽装している、あり得ない程に知能の低いスコットランド・ヤードを困惑させるためにね。ほら、解決してやったぞ。
そう言うとHolmesは持っていた本を閉じてテーブルに置いた。
SH: 帰りにHudson夫人のところにも顔を出してやってくれ、仲間に入れてもらいたがっている。
GL: 本当か?
SH: そうとも。帰ってくれ。(居間の方へ向かって呼びかける)Watson!もういいぞ。君も帽子と靴を。大事な約束がある。
そう言ってHolmesは声を掛けたが、部屋の中にWatsonの姿は見えなかった。Lestradeは立ち上がって帽子を取り、居間を覗き込む。
GL: Watson先生は数か月前に引っ越したんじゃなかったか?
SH: そうだったな。(考え込んで)僕は今まで誰に話をしていたんだろう?
GL: まあ、あり得ない程に知能の低いスコットランド・ヤードの代表に、かな。あの椅子は空っぽだよ。
Holmesは空席になっているWatsonの肘掛け椅子を眺める。
SH: そうだな。仕事は捗っていたんだが。実際あいつも進歩したと思っていたんだ。
テーブルの上の書類をざっと見返すと、Holmesは寝室へ向かっていく。Lestradeは部屋を出ていった。
※黄道傾斜角
…原作「ギリシャ語通訳」の冒頭で、二人の会話の話題のひとつとして黄道傾斜角の変動が挙げられている。
Watsonも誰もいない椅子を眺めていた。そこは彼の家の食卓で、向かい側の席にはまだ使われていない朝食用の食器やティー・セットが置かれていた。テーブルの反対側に座って新聞に目を通していたWatsonは椅子を見やりながらため息をつき、再び新聞へ意識を向けようとした。だがすぐに顔を上げてドアへ視線を投げ、テーブルに置かれていたベルを手に取って鳴らした。彼の前にも空のままの食器とティー・カップがあり、そばにはマーマレードなどが添えてある。Watsonはベルを置いて苛立ちながらドアを見やるが、誰も応えない。新聞をテーブルに置き、ウエストコートから懐中時計を取り出して時間を確認する。ため息をこぼして首を振り、時計を戻してから再びベルを鳴らすと、メイドのJaneがドアを開けて慌てて駆け寄った。
JW: ああ。どこに行っていた?
Jane: すみません、今朝は少し遅れてしまいまして。
JW: 卵ひとつ茹でられないのか?(ため息をつく)煖炉の火は消えかけてるし、そこら中が埃だらけ、それに私のブーツから泥を落とそうとしてダメにしかけたじゃないか。もし召使が妻の担当じゃなかったら、私が言い渡すところだ。妻はどこにいる?(※)
Jane: 生憎ですが、奥様は外出なさいました。
JW: 外出?朝のこんな時間に?
Jane: さようで。ご存知なかったんですか?
JW: どこへ出掛けた?(新聞を眺めだす)最近いつも出掛けてるじゃないか。
するとメイドは吹き出した。
Jane: 人の事を言えないじゃない。
Watsonは顔を上げて彼女を見る。
Jane: …ですよね。
JW: 何だと…?
Jane: 観察させていただいたので。
JW: おい、いい加減にしろ。観察しろなどと誰も言っていない。
Jane: すみません。でも、お二人はほとんど一緒に家にいらっしゃらないじゃないですか。
JW: お前の無礼さには我慢の限界だ。(前へ身を乗り出して)妻から言い渡すよう私が言ってやるからな。
Watsonは椅子へ座り直して、新聞へ視線を落す。
Jane: さようで。それで、いつ奥様とお会いに?
それを聞くとWatsonは驚いて顔を上げ、再び前へ身体を乗り出した。
JW: おい、いいか…
Jane: ああ、忘れるところでした。
メイドはあわてて駆け寄って、エプロンのポケットから取り出した電報をWatsonに差し出した。
Jane: その、電報が届いてました。
JW: 忘れてただと?!
Jane: いえ、忘れそうになっただけです。
JW: (電報を引ったくるように取りながら)今朝は何をしてたんだ?
Jane: ストランドに載った旦那様の新しいお話を読んでいました。
JW: どうだった?
Jane: どうしてわたしのことを書いてくれないんです?
JW: 下がりなさい。
メイドを下がらせ、Watsonは電報を読みだした。
DR. JOHN WATSON
COME AT ONCE
IF CONVENIENT.
IF INCONVENIENT,
COME ALL THE SAME.
HOLMES
[DR. JOHN WATSON 都合が良ければ、すぐに来てくれ。もし不都合でも、とにかく来てくれ。HOLMES](※)
電報をテーブルに置いたWatsonは慌てて席を立ち、駆け出していった。
※ブーツをダメにしかけた
…原作「ボヘミアの醜聞」。結婚してベイカー・ストリートを離れたWatsonと久々に再会したHolmesがWatsonの靴について推理を披露すると、Mary Janeという下働きの女性が泥を取り除こうとして靴に傷をつけてしまったことや、彼女は手に負えないので妻がクビにすると言い渡した、とWatsonが語る。
※Holmesからの電報
…原作「這う男」でHolmesがWatsonに向けて送った電報から。 “Come at once if convenient – if inconvenient come all the same.” (都合がよければすぐ来てくれ-もし都合が悪くても来てくれ)
回る地球儀が画面に現れ、場面は辻馬車に乗っているHolmesとWatsonへ。
JW: 何が何だって?
SH: 黄道傾斜角。
JW: 「すぐに来い」って。大事な用事なんだろうと。
SH: そうだ。 天球上で地球の赤道と太陽の軌道がなす角度なんだ。
Watsonは冷やかすように言う。
JW: 随分勉強熱心だな?
SH: どうして僕が?
JW: 賢く見せようと。
SH: 僕は賢い。
JW: ああ、なるほど。
SH: 何が「なるほど」だ?
JW: 僕らは君より賢い人物のところへ向かってるんだろう。
SH: (わずかに静止して)うるさい。
しばらくして二人はある建物へ到着した。入り口には「THE DIOGENES CLUB(ディオゲネスクラブ)」と札が掲げられている。(※)建物内にある受付では上部に吊るされたガラスに“ABSOLUTE SILENCE(絶対静粛)”と注意書きがあった。HolmesとWatsonは受付へ進む。机の向こうに立っている制服姿の年配の男性へHolmesが微笑みかけると相手は彼を認め、黙って指を掲げた。Holmesは手袋を外してコートにしまい、「手話」で受付係に話し始める。
Good morning, Wilder.
Is my brother in?
[おはよう、Wilder。兄は在室かな?]
Wilderは黙ってうなずき、手話で返す。
Naturally sir.
It's breakfast time.
[いつも通りに。ただいま朝食のお時間でございます。]
Holmesは手話で続ける。
The Stranger's Room?
[応接室か?]
Wilderはうなずいて示す。
Yes, sir.
[さようで。]
HolmesはWatsonを示し、彼を紹介する。
This gentleman is my guest.
[こちらは私の連れだ。]
WilderはWatsonへ顔を向けた。
Ah Yes!
Dr Watson, of course.
Enjoyed ‘The Blue Carbuncle’, sir.
[ああ、はい!Watson先生でいらっしゃいますね。『青い紅玉』拝読いたしました。]
Holmesは突っ立ったままのWatsonに目を回し、促すように彼を小突いてうなずいて見せた。Watsonはぎこちない様子でWilderに手話で答える。
Thank you. I...am...glad
...you...liked it.
You are very...ugly.
[ありがとう。気に入って…くれて…私も…うれしい。君は非常に…不細工だ。]
Holmesは驚いて彼を二度見する。Wilderは眉をひそめて手話で聞き返す。
I beg your pardon?
[何とおっしゃられましたか?]
Watsonが再び手話で返す。
Ugly. What you said about
‘The Blue Fishmonger’.
Very ugly...
I am glad you liked
my potato.
[不細工。『青い魚屋』について言ってくれたことが。非常に不細工…私の芋を気に入ってくれてうれしい。]
Wilderが少しく目を見開いて怪訝そうにHolmesを見やると、彼は憐れむようにWatsonへ笑みを向け、手話で伝えた。
Yes. Needs work, Watson.
Too much time spent on
dancing lessons.
[そうだな。仕事に戻ろう、Watson。ダンス・レッスンに時間をかけ過ぎた。]
とうとうWatsonは我慢出来ずに声を上げた。
JW: 何だって?
Holmesは呆れたようにただ目を回して受付を離れた。Watsonは気まずそうにWilderを見やる。
JW: おっと。
Holmesが去って行った方へ顔を向け、再びWilderへ視線を戻したWatsonは、ぎこちなく左の親指を掲げて礼を示した。
Holmesがある一室の扉を開けると、彼に背を向けて、大きく肥満した男性が椅子にのめり込むように座っていた。椅子の両側にはすぐ手の届く場所にいくつものテーブルが置かれ、その上には豪華で魅力的な料理の数々が、溢れるくらいに並べられている-プディング、ケーキ、パイ、七面鳥の丸焼きなど。食べ物を頬張った直後らしく、指をこすり合わせているのは、Mycroft Holmesだった。
MH: 人間観察をしたいと願う者にとって、ここは恰好の場所だな。(※)
Watsonが扉を閉め、Holmesが兄の前へ歩み寄る。
SH: 便利だろう、たしかに、その肥大し続ける尻はくっついて離れないんだものな。おはよう、兄さん。
MH: (口に入れたものを咀嚼しながら)Sherlock。Watson先生。
Holmesと並んで立ち、Mycroftを囲んでいる大量の料理を恐れをなして眺めていたWatsonは、でっぷりした手が自分に向かって差し出されていることに気付いた。二人は握手を交わす。
JW: お元気…そうですね。
MH: そうかね?私は随分巨大に見えるかと思ったがね。
そう言いながらポートワインのグラスを取って飲み出す。
JW: では、申し上げさせていただくと、こんな食生活をされていたのでは健康に甚大な被害を及ぼしますぞ。心臓が…
SH: その点に関しては心配ない、Watson。
JW: ええ?
SH: 「その臓器」が収められる場所には巨大な空洞があるだけだからな。
MH: そういう家系なのだ。
SH: おや、批評をするつもりはなかったんだが。
JW: こんなことを続けておられては、せいぜい五年しかもちませんぞ。
それを聞いてHolmesは怪訝そうに眉を上げて彼を見た。
MH: 五年?私たちは三年だと思っていたよ、だろう、Sherlock?
SH: やはり四年としておこう。
MH: 相変わらずお前は見るだけで観察をしていない。私の白目は変色し、角膜の周辺には肥大化した組織が…
SH: ああ、その通りだ。僕の賭けは3年4ヶ月と11日に変更させてもらおう。
JW: 賭け?!
SH: 君が不賛成なのはもっともだと思う、Watson、だが兄が勝つ気になれば、早く死ぬことは十分可能なのだ。
MH: それが負わねばならないリスクなんだよ。
JW: 自分の命で賭け事をしているんですか?
MH: いけないかね?他人の命を賭けるより、大いに楽しめるじゃないか。
SH: (テーブルの上の料理を顎で示して)あのプディングを食べれば三年きっかりになる。
MH: よし!
舌なめずりをしたMycroftはテーブルに手を伸ばし、胃にもたれそうな巨大なプディングの皿を取ると、大きく口を開けてかぶりついた。
しばらくしてHolmesとWatsonはMycroftの向かいに置かれた椅子に並んで腰掛けていた。サイドテーブルにはコーヒーの入ったポット、ミルク入れと砂糖壺が並べられ、ミルクコーヒーの入ったカップが皿に乗せて置いてある。Holmesは別のカップと皿を手にしてブラックコーヒーを飲んでいた。
MH: 数日前、荘園領主邸の件で顔を出すだろうと思っていたんだ。ちょっとお前の手には余るんじゃないか、とね。
SH: (サイドテーブルにコーヒーカップと皿を置きながら)いや。解決した。
MH: Adamsだっただろう。
SH: ああ、Adamsだった。(※)
MH: (Watsonへ)動機は嫉妬だよ。そいつは黄道傾斜角について王立天文学会に提出する文書を執筆したんだが、自分のものより優れた報告が存在することを知ったのだ。
SH: そうだ。僕も読んだ。
MH: 理解出来たかね?
SH: (横目でWatsonを見ながら)ああ、もちろん理解したさ。非常に単純なことだった。
MH: そうではない-嫉妬に駆られて人を殺すという心理を理解出来たかね?達人にとっては、より優れた者の存在を予期することは容易ではあるまい。
Holmesはため息をついたが、わずかに兄に微笑んで見せた。
SH: 僕の自尊心を傷つけるためにここへ呼んだのか?
MH: そうだ。
憤激してHolmesは立ち上がった。Mycroftは含み笑いをする。
MH: 違うに決まっているだろう、だが優れた者にとってはたまらない楽しみでな。
SH: ではなぜ僕を呼んだのかきちんと説明してもらおうじゃないか…
MH: (最後まで聞かずに)我々の生き方は、日常的にそばをうろついている目に見えぬ敵に脅かされているのだ。この敵どもはあらゆる場所にいるが、検知されず阻止出来ない。
Watsonは前に身を乗り出す。
JW: 社会主義者ですか?
MH: 社会主義者ではない、先生、違うよ。
JW: 無政府主義者とか?
MH: 違う。
JW: フランス軍?婦人参政権論者とか?
MH: 君が思いつかない大きな団体は何かあったかな?
SH: Watson先生の油断のなさは無限大だ。(兄へ)推敲したまえ。
MH: いいや。捜査だ。私の推論があるのだが、お前に確証してもらいたい。事件を依頼しよう。
まだ頭をひねっていたWatsonは新たな思いつきを得た。
JW: スコットランド人。
SH: スコットランド?!
MH: 「偏執病」として知られる症状に言及した最近の学説は認識しているかね?
JW: おお、セルビア人のようですな。
Holmesは呆れて目を回す。
MH: (弟へ)ある女性がお前を訪ねるはずだ-Carmichael夫人。その事件を扱ってもらいたいのだ。
JW: その敵ですがね、僕らにどう打ち負かせとおっしゃるのです?どんな奴らかも教えてくださらないで。
MH: 打ち負かしはない。負けるべきなのは我々の方だ。
JW: なぜです?
MH: 正しいのは向こうで、我々は間違っているからだよ。
SH: Carmichael夫人の件-内容は?
MH: ああ、安心したまえ、「興味をそそる特徴」がある。
SH: そんな発言はしていない。
JW: 言ってるって。
SH: (兄へ)どうせもう結論は出ているんだろう?
MH: 頭の中では、な。お前に頼みたいのは、その…(顔をしかめ)…足で稼ぐことだ。
JW: その結論とやらは教えていただけないのですか?
MH: そんなことをして何の面白味がある?やってくれるかね、Sherlock?最高の気晴らしを約束するぞ。
SH: 条件がある。もうひとつプディングを。
MH: 運ばれてくるところだ。
SH: (上着のボタンを締めながら立ち去り始める)2年11ヶ月と4日。
Mycroftは含み笑いをする。
MH: ますます盛り上がってきたな!
Holmesが帰ろうとしていることに気付いたWatsonも立ち上がる。
MH: チクタク、チクタク、チクタク。
部屋を出ていくWatsonに向かって、時計の針のように指を振って見せる。他の扉から、銀の覆いを被せた大きな皿をワゴンに乗せて、Wilderが入ってきた。
MH: ありがとう、Wilder。
Wilder: Melas氏がお見えになっています、Holmes様。(※)
MH: ああ。五分待ってくれ。勝たねばならん賭けがある。
Wilderが銀の覆いを持ち上げると、三つの巨大なクリスマス・プディングが現れた。MicroftはWilderに再び声をかける。
MH: 15分にしといた方がいいな。
恍惚とした表情を浮かべながら皿に手を伸ばす。
MH: チクタク。
そしてプディングのひとつを皿から掴み取ると、両手で持って食らいついた。
※ディオゲネスクラブ
…原作「ギリシャ語通訳」でHolmesが兄のMycroftについて語る場面でディオゲネスクラブについて説明している。-「ロンドンには内気だとか人間不信などの理由で人と付き合う気のない男が大勢いる。だからと言って彼らも座り心地の良い椅子や定期刊行物の最新号を避けている訳ではない。ディオゲネスクラブが始まったのは、こうした人たちの利便のためだ。今ではこの街で最も非社交的な人間が大勢加入している。他のメンバーの事をほんの少しでも話題にすることは禁止されている。訪問客の部屋を除き、どんな状況下であっても一切話をする事は許されない。委員会に三度違反が報告されれば、違反者は除名される。兄は創始者の一人だが、僕も非常に落ち着く雰囲気の場所だと思っている」-ディオゲネスは古代ギリシアの哲学者でキュニコス派。「嘲笑する、皮肉屋な、人を信じない」という意味の「シニカル」という語は、キュニコス派を指す英語 cynic を形容詞化した cynical に由来する。-Wikipedia「キュニコス派」より
※人間観察に恰好の場所
…原作「ギリシャ語通訳」で初登場したMycroftは、ディオゲネスクラブで二人を迎えた際に同様に語っている。
※荘園領主邸の件、Adams
…原作「ギリシャ語通訳」で、HolmesとMycroftは同様の会話をしている。(ただし「Adamsだった」というところまで)
※Melas
…原作「ギリシャ語通訳」。Mycroftにギリシャ語通訳のMelas氏が奇妙な体験について相談をし、MycroftはHolmesに捜査依頼をする。