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    BBC SHERLOCK

    日本語訳

    <非公式>

    サイト内は過去掲載分も含め、日々更新していますので

    こまめにリロード(再読み込み)をして最新の状態でご覧ください

    病院、昼間。普段着姿のMaryがエントランスを抜けて急いでロビーに向かっていく。階段を上がっていく先にはJohnが待っていた。

    JW: Mary。

    Johnは階段を上がってきたMaryに歩み寄る。

    MW: どうなの。

    JW: (安堵の声で)あいつは意識を取り戻しやがった!息を吹き返したよ。

    MW: (笑みを浮かべて)ほんと?!ほんとに?

    JW: ああ、そう、Watson夫人…(いかめしい表情を装いながら彼女を指さし)…厄介なことになるぞ。

    Maryは困惑して眉をひそめる。

    MW: ほんとう?どうして?

    JW: あいつが意識を戻したときに最初に言った言葉は?

    Maryは首を振る。

    JW: 「Mary」!

    Maryがクスクス笑い出すとJohnも一緒に笑い出した。二人はうれしそうに抱き合う。

    MW: ああ!

    Johnの肩に乗せたMaryの顔から笑みが消えた。

     

     

    アップルドー。Magnussenは玄関ホールから下の階へ下り、キッチンを通り過ぎてガラスの壁の書斎に入り、木製扉に向かった。螺旋階段を下りて保管室に入り、何かを探しながら棚に手を掲げる。

     

     

    病室。点滴が横に置かれ、経鼻カニューレを顔に付けられてベッドに横たわっているSherlock。ベッドの脇に置かれたキャビネットの上には扇風機があり、回っている羽の影が彼の顔にちらついている。

    MW: (画面外、そっと)あの人には言わないで。

    苦労しながらSherlockは目を開ける。

    MW: (優しく、歌うように)Sherlock?

    目を開けるとベッドのそばにMaryが立っていた。視界はぼやけている。

    MW: Johnには言わないで。

     

     

    アップルドーの保管室、MagnussenはMaryの写真がクリップで挟まれた書類を眺めていた。

    CAM: (そっと)いけない娘だ。

    書類に笑みを向ける。

    CAM: (うっとりしたような声で)いけない、いけない娘だね。

    笑みは顔に広がっていった。

     

     

    病室でMaryはSherlockへ屈み込むが、彼の視界はやはりぼやけていた。

    MW: (しっかりとしたささやき声で)こっちを見て-あの人には言わないって約束して。

    視界は更に曖昧になり、彼は目を閉じた。

     

     

    恐らく数日後と思われる昼間の病室。上部が少し上げられたベッドに横たわるSherlockは新聞のガサガサいう音を聞いて目を開き、疲れたため息をこぼすと枕から頭を持ち上げた。経鼻カニューレはもう外されている。ベッドの足元に誰かが新聞を掲げて持ち、彼に見せていた。Daily Expressの一面-“SHAG-A-LOT HOLMES(精力絶倫Holmes)”、添えられている文章は「Sherlockは男らしく欲望の赴くままにフィアンセを求める」。別の新聞が掲げられる、Daily Mirrorの一面- “EXCLUSIVE – SHERLOCK HOLMES KISS AND TELL(独占記事-Sherlock Holmes キスと口説き文句)”、そして“7 TIMES A NIGHT IN BAKER STREET(ベイカーストリートで一晩に七回)”。赤いマニキュアをした手が新聞の内側を開いて見せる。そこには鹿撃ち帽を被ったJanineがカメラに向かって微笑んでいる写真が載っていて、Sherlockの写真も添えられていた。タイトルは“He made me wear the hat(わたしにあの帽子を被らせてくれたの)”とある。

    Janine: わたし別荘を買うの。

    ベッドに新聞を投げ捨ててSherlockに微笑みかける。

    Janine: あなたのおかげでたくさんお金を稼げたわよ。

    Sherlockは新聞のひとつを手に取って眺める。

    Janine: 金儲けのための復讐、それ以上の打撃ってないわよね。

    SH: (うんざりした様子で)その話をMagnussenには売らなかったんだな?

    Janine: そんな、まさか-競合相手のひとりよ。罵ってた!

    Sherlockは不平そうな声を出してわずかに笑みを浮かべた。

    Janine: (怒りの眼差しを向けて)Sherlock Holmes、あなたって陰険で、無神経で、人を利用することしか考えてないのね。

    Sherlockはベッドの上に置かれているリモコンのボタンを押してベッドの角度を上げ、座っている状態まで近付けていった。

    SH: そして君は-判明したところによると-貪欲で、日和見主義で、タブロイドで注目を浴びたがってる尻軽女だな。

    Janine: (楽しげに)ならわたしたちお似合いよね!

    SH: ああ、もちろん。(笑みを浮かべる)どこに別荘を?

    Janine: サセックス・ダウンズ。

    SH: ふーん、いいね。

    Janine: ゴージャスなの。蜂の巣があるけど、取り除いてやるわよ。(※)

    Sherlockは身体を高い位置に上げようとしたが、痛みを感じて苦しそうに喘いだ。

    Janine: ああ、痛いんでしょ?モルヒネを再開したいんじゃないかしら。ちょっと機械をいじらせてもらったかも。

    SH: 一体どれだけ復讐すれば気が済むんだ?

    顔をしかめながらベッドの脇にある機械に手を伸ばし、ボタンを押して腕に注入されるモルヒネの量を増やす。画面の赤い表示が最大量に設定されていることを示している。

    Janine: 満タンは程々にしときなさい。

    室内を見渡す。

    Janine: 夢が叶ったんじゃない?この場所で。ドラッグを与えてもらえるんですものね!

    SH: 仕事には良くない。

    Janine: しばらく仕事はしないでしょ、Sherl。

    Sherlockはそっとため息をこぼして少し目を閉じた。

    Janine: (そっと)あなたは嘘をついた。みんな嘘ばっかり。

    SH: 関係で得たものを私的に利用した。

    Janine: いつ?!

    SH: うーん?

    Janine: 一回だけでも、しとけば良かった。

    SH: あー。(少しずる賢い顔をして)結婚するまでとっておこうと思って。

    Janine: そんなつもりなかったくせに!

    Sherlockは顔を背けた。Janineはため息をこぼして立ち上がる。

    Janine: 行かないと。

    Sherlockに歩み寄って額にキスをする。額に付いた口紅を親指で拭った。

    Janine: あまり話をさせないように言われてるの。

    手を伸ばしてハンドバッグを取る。

    Janine: (起き上がって)それにThe One Showでもインタビューがあるんだけど、まだ話をまとめてないし。

    Sherlockはそっとため息をこぼしながら天井を見上げる。出口に向かったJanineは振り返った。

    Janine: ひとつだけ。

    Sherlockは顔を向けた。

    Janine: わたしに嘘をつくべきじゃなかったのよ。あなたみたいな人がどういうものか知ってる…友達になれたかもしれないのに。

    笑みを向けながらドアの方を向いてハンドルに手を掛けたが、再び顔を向けた。

    Janine: JohnとMaryによろしく。

    Janineは病室を出ていった。Sherlockは物思いに耽りながら彼女が閉めていったドアを眺め、そしてしばし上を見上げた。やがてモルヒネのディスペンサーへ顔を向けると、痛みにうなり声を出しながらもボタンを押して投薬量を減らしていった。赤く表示されている投薬量を示すレベルが下がっていく。疲れたようにため息をこぼしながらボタンから手を離す。そして目を閉じた…

    …目を開けると彼は精神の館で木製の扉が並ぶ廊下に立っていた。スーツの上にコートを着たいつもの姿で立ち、前方を鋭い眼差しで見つめている。

    MW: (画面外)あの人には言わないで。

    廊下の少し先にMaryが立って彼を見ていた。初めてレストランで会った時と同じ服装、髪型をしている。

    MW: Johnには言わないで。

    Sherlockが歩み寄っていくとMaryの右肩あたりに “Liar(嘘つき)”という文字が浮かび上がった。

    SH: (ゆっくりと)それで…

    歩み寄っていくと更にたくさんの “Liar”が彼女の周りに浮かび上がる。Sherlockが彼女の周りを囲うように歩くが、Maryは落ち着き払った様子で彼を見ていた。

    SH: …Mary Watson。君は何者だ?

    彼女の正面に立ち、顔を合わせる。「言葉」はまだ周りに浮かんでいる。Sherlockが彼女をしばし見つめた後で離れていくと「言葉」も彼の後をついていった。

    …Magnussenの部屋、黒い手袋をしたMaryがピストルの引き金を引くとスローモーションで銃弾が飛び出していった。

    病室のベッド、目を閉じて両手を胸の上で合わせていたSherlockは銃声を聞くと手を下ろした。ため息をつき、顔を上げて疲れたように目を開く。

     

    ※蜂の巣

    …原作のHolmesは探偵を引退した後、養蜂に勤しむ。原作「第二のしみ」の冒頭でWatsonは「彼はロンドンから完全に離れて、サセックス・ダウンズで養蜂の研究に専心するようになった」と語っている。

     

     

    同じ日と思われる夜。JohnはGreg Lestradeを連れて病院の階段を上がっていた。

    JW: あいつからまともに話が聞けるかどうか。薬の影響で、わけのわからないことを言ったりしてる。(※)

    階段を上がって通路を歩いていくとJohnは機械の発する音を耳にした。Gregが携帯電話を使おうとしているのに気付く。

    JW: もう、ここでは携帯を使っちゃダメだってば、わかるでしょ。

    GL: いや、電話を掛けるんじゃなくて。動画を撮ろうかと。

    二人はニヤリとし、Gregは含み笑いをする。しばらくしてJohnがSherlockの病室のドアを開け、二人で中に入った。ベッドはもぬけの殻だった。Johnは室内を見渡すと、ブラインドが上げられて窓が開いているのに気付いてショックを露わにした。

    JW: ああ、まさか。

    二人は窓を見つめ、Johnがため息をつくと二人は視線を交わした。

     

    ※わけのわからないことを言う

    …SherlockはJanineとはまともな会話をしているので、Johnの前では会話が出来ないフリをしているのかもしれない。恐らく何があったのか訊かれるのを避けるためだろう。原作「瀕死の探偵」でHolmesはWatsonの前で瀕死状態を装う。「仮病というのは僕がいつか論文を書こうと思っているテーマだ。時々、半クラウン金貨、カキ、それから他の関係ないことを話すと、幻覚状態にふさわしい効果が得られる」

     

     

    家にいると思われるMaryは電話を受けていた。

    MW: (電話に)で、あの人どこ行ったの?

    JW: (病院から電話を掛けている)ああ、「神のみぞ知る」だね。ロンドンの中からSherlockを探すなんて。

    Maryは電話を下ろして通話を切った。

     

     

    JohnとGregは病院から出てきた。

    GL: あいつの隠れ家は三ヶ所ある…

    病院から出ていきながらGregは電話を掛け始めた。

    GL: パーラメント・ヒル、カムデン・ロック、ダグマー・コート。(※)

     

    ※パーラメント・ヒル…ロンドン北西部にある広大な公園「ハムステッド・ヒース」内にある丘 / カムデン・ロック…ロンドン北西部にある街、カムデンにある水門。正式名は「ハムステッド・ロード・ロック1」またはその水門周辺のエリア / ダグマー・コート…ロンドン東部、テムズ川沿いにある裏町。

     

     

    MH: 五ヶ所の隠れ家が把握済みだ。(※)

    ディオゲネスクラブのオフィスにいるMycroftは机に向かい、コンピューターで衛星写真の地図を眺めていた。ページのタイトルは“UGLY DUCKLING(みにくいアヒルの子)”。地図の右上の角には“TARGET LOCATED. TRACKING ...(目標 確認済み 追跡中…)”と表示されていて、地図に付けられた地点がハイライトされている。追跡情報によるとそこはポーランドのワルシャワで、Mycroftは同時に他の作業もしているようだった。Gregが机のそばに立っている。

    MH: キュー・ガーデンに窓がない温室、ハムステッド・セメタリーに傾いた墓がある。

    そう言って顔を上げたMycroftは鬱陶しそうにGregを手で追い払った。

     

    ※五ヶ所の隠れ家

    …原作「ブラック・ピーター」で、Holmesは別人になるための隠れ家を少なくとも五ヶ所は用意しているとWatsonが述べているが、具体的な場所は記されていない。

     

    ※キュー・ガーデン…ロンドン南西部にある王立植物園 / ハムステッド・セメタリー…霊園

     

     

    白衣姿のMollyが社員食堂でテイクアウト用のコーヒーを手にして座っていた。テーブルの上にはアルミホイルに包まれたサンドイッチとみかんが置いてある。誰かに話をしているが、カメラの視点はその人物を通したものなので誰かはわからない。

    MoH: 予備の寝室が…(気まずそうに)その…わたしの寝室なんだけど。場所が必要だってことで。

    Mollyははにかみながらコーヒーを口にした。

     

     

    9時2分、ビッグ・ベンが鐘を鳴らしている。

    MrsH: ビッグ・ベンの文字盤の後ろよ。

    221。玄関にいるJohnはノートとペンを手にして階段に腰掛けていて、そのそばにHudson夫人が立っていた。

    JW: あいつは冗談のつもりだったんでしょう。

    MrsH: いいえ!わたしはそう思わない!

     

     

    Anderson: レンスター・ガーデンズ。そこが一番の隠れ家なんだ。極秘中の極秘情報。

    Benjiと共にどこかの駐車場らしき場所に立っているAndersonが前に立つMaryに情報を提供していた。

    Benji: (顔だけAndersonに向け、Maryに)知ってるのはこの人だけ、だってこの間ストーカーしてたんだもん。

    Anderson: ついてっただけ!

    Benji: ついてった、のよね。

    Maryの眼差しは鋭くなっていた。

     

     

    221B。Johnはリビングで歩き回っていて、GregとHudson夫人がキッチンにいた。

    JW: あいつは撃った奴を知ってるんだ。

    キッチンにいる二人が顔を向けるとJohnは立ち止まり、自分の胸元の下あたりを指した。

    JW: 銃創はここだった、だから撃った奴と顔を合わせてたんだよ。

    GL: (歩み寄りながら)ならどうして俺たちに言わない?

    Johnは窓の方を向いて考え込みながらため息をこぼした。

    GL: あいつは自分で追い詰めようとしてるんだな。

    JW: (Gregの方へ振り返り)それかそいつを庇ってる、か。

    GL: 撃った奴を庇う?どうして?

    JW: さあね、それか「誰か」を庇ってるとか。でもあいつがそんなことするかな?Sherlockだぞ。あいつが庇うような奴って誰なんだろう?

    Johnは「自分の肘掛け椅子」に腰を下ろしたが、その椅子を見下ろして眉をひそめた。考え込みながら肘掛け部分を軽く叩く。

    GL: 何かわかったら連絡してくれ。除け者にするなよ、John。

    Johnはまだ自分の椅子が戻されていることに戸惑っている様子だった。

    GL: 連絡しろよ、いいな?

    JW: (気が散ったまま、Gregの方を一瞥して)はい。はい、わかりました。

    Gregは出ていきながらHudson夫人に声を掛ける。

    GL: ではおやすみなさい。

    MrsH: あら…

    部屋を出ていくGregを追って夫人もリビングのドアに向かった。Johnは眉をひそめながら親指で椅子の肘掛け部分を撫でている。

    MrsH: (Gregに)さよなら。

    夫人は振り返って心配そうにJohnへ声を掛けた。

    MrsH: John?お茶要るわよね。

    夫人がキッチンに入っていくと、Johnは椅子を少しキッチンの方へ向けた。

    JW: Hudsonさん…(咳払いをする)…な、なんでSherlockは僕がここに戻ってくると考えてるんでしょう?

    MrsH: ああ、そうね、椅子をまた戻したのよね、あの人ったら。

    JW: はあ。(考え込みながら椅子の背に寄り掛かる)

    MrsH: いいことね!

    ケトルを手にした夫人はリビングへやって来る。

    MrsH: この方がいいわよね。

    Johnは椅子の右側に置いてあるエンドテーブルに視線を向けた。そこには二冊の本と、三日月の形をした小さなガラスの瓶が置かれている。

    MrsH: John、どうしたの?言ってちょうだい。

    Johnの視線はガラス瓶に注がれていた。

    MrsH: John?

    Johnは瓶から視線を外して窓の方へ顔を向ける。すると電話が鳴り出した。

    MrsH: あなたの電話じゃないの?

    Johnの電話を取ってやるためにダイニングテーブルに歩み寄った夫人は電話の画面を見て振り返った。

    MrsH: Sherlockからよ、John。Sherlockよ。

    夫人は電話を差し出したが、Johnはまだ窓の方を凝視していた。そしてまた瓶へ視線を向ける。

    MrsH: John!電話に出ないと!

    だがJohnは瓶から視線を外せないでいた。それは香水-Claire de la Luneのガラス瓶だった。

     

     

    香水瓶の三日月が、夜空に浮かぶ本物の半月へと変わる。Maryはひとりレンスター・ガーデンズ(※)へ向かって道を歩いていた。そこは高級住宅街らしく、進む先には白い壁をした四階建てのエドワード様式の家がいくつか道に沿うように連なっていた。ホームレスらしき男が道の角にある壁に寄り掛かってしゃがんでいる。上着のフードを被ってブランケットを羽織り、白いプラスチック製の器を前に置いていた。通り過ぎるMaryに声を掛ける。

    ホームレス: (しゃがれ声で)小銭持ってない、お姉さん?

    MW: (立ち止まらず)無い。

    ホームレス: (しゃがれ声で)ねえ、待ってよ、お姉さん。他の奴みたいなことするなって。

    するとMaryは立ち止まって男の方を向き、コートのポケットから掴み取った小銭を置いてある器に入れた。起き上がる前に男は彼女の手首を掴む。それはBill Wigginsだった。

    Bill: (普段の声で)Sherlock Holmesを探す第一の方法…

    Maryの手に携帯電話とヘッドセットを置く。

    Bill: …「見つけてもらう」。

    Billは器を持って立ち上がった。

    MW: あなたSherlockの下で働いてるの。

    Bill: 路上生活から解放してくれた、かな?

    MW: さあ…どうだか。

    Maryが肩をすくめると渡された電話が鳴り出した。ヘッドセットを耳に装着するとBillyは立ち去っていった。Maryは電話に応答する。

    MW: (道を歩きながら)どこにいるの?

    SH: (電話で)僕が見えないか?

    MW: さあ、何を探せばいいわけ?

    SH: (電話で)嘘-レンスター・ガーデンズの嘘-目の前に潜んでいる。

    道を進んでいくと、あの背の高い住宅の様子がよりわかるようになってきた。家の正面のあたりを眺めながら歩いていく。周りには通り過ぎる車も、駐められている車も無かった。

    SH: (電話で)ほとんど皆、気付かない。長年ここに住んでいる人々の目にも入らない。だがもし君が僕の考えているような人間なら、一分も掛からないだろう。

    Maryはゆっくりと道を進んでいく。

    SH: (電話で)家だ、Mary。家を見るんだ。

    MW: ここに来るってどうしてわかったの?

    SH: (電話で)君が他に誰も気に掛けないような人間に話を訊くことはわかっていた。

    MW: (わずかに笑って)巧くやってると思ってたんだけど。

    SH: (電話で)いつだって巧くやってる、Mary。それを当てにしてたんだよ。見つけるための情報を植え付けておいた。

    MW: (感心したような声で)あー。

    Maryは立ち止まって注意を惹きつけられた二つの家に顔を向けた。両端にある他の家とほとんど同じ見た目をしているが、どの窓からも灯りが漏れていなかった。

    SH: (電話で)30秒。

    MW: これ何なの?

    SH: (電話で)ドアノブは無い、郵便受けも無い…

    Maryはそれを確認するために二つの玄関扉に目を向け、それから窓を見上げると不透明になっているのに気付いた。

    SH: (電話で)…塗りつぶされた窓。レンスター・ガーデンズの23と24…

    言葉を止めてそっとため息をこぼす。

    SH: (電話で)…空っぽの家だ。(※)

    カメラの視点は家の屋根へ上がっていく。

    SH: (電話で)大昔、ロンドン地下鉄の線路を引くために取り壊された。蒸気機関車の換気口として。

    カメラが家の上まで上がっていくと、家は正面を除いて何も無いことが明らかになった。両端にある家は完全な建物だがその二軒だけは正面部分しか無く、その下には地下鉄が通り過ぎていく線路があった。

    SH: (電話で)残されているのは家の正面部分だけ。そう、ファサード(※建物の正面、外観の重要部分)だ。(息を吸い込む)誰かを彷彿とさせないか?Mary。ファサード。

    すると二軒の正面の壁にひとつの映像が投影された。二階から上の壁に大きく拡大されて映し出されているのはMaryの顔写真-結婚式の日に撮られたもので、白いベールと髪飾りを着けた彼女はカメラに向かって幸せそうに微笑んでいた。Maryはどこから映像が投影されているのか探ろうとして後ろを振り返る。

    SH: (電話で)すまないね。僕はどうしてもドラマ仕立てにしてしまうんだ。(※)

    Maryは振り返って投影される自分の映像を眺める。

    SH: (電話で)さあ入って。少し狭いけど。

    MW: (家の方へ向かっていきながら)この場所、あなたが所有してるの?

    SH: (電話で)んー。カード・ゲームで勝ったんだ、「クラレンス・ハウスの人食い」相手に。(※)

    二つ並んだドアのひとつがわずかに開くと、中には照明が灯されていた。Maryはドアへ向かう。

    SH: (電話で)危うく腎臓をもっていかれるところだったけど、幸運なことに僕には…(息を吸い込む)…ストレート・フラッシュがあった。

    ドアを押し開けて中を覗いた。そばの壁には何も挿さっていない大きなコンセント、そしてヒューズ・ボックスがある。

    SH: (電話で)なかなかのギャンブラーだな、「あの女」。

    Maryは中に入る。「家」に残っているのは正面部分から延びる細長い廊下のみだった。少し後ろを振り返ってから再び前方に延びる廊下を眺める。彼女が立っている端の部分は照明で明るくなっていて、廊下の突き当りからも彼女の方に向かって灯りが発せられていた。距離と照明効果により曖昧だが、後ろから発せられる光に背を向け、影となった状態で入り口の方を向いて誰かが椅子に座っているのがわかった。Maryはその姿を見つめて息を吸い込む。

    MW: どんな用事なの?Sherlock。

    カメラの視点が変わり、影となっている人物の肩越しにMaryの姿を映す。そばの天井から水が滴り落ちている。その人物のそばには細い透明のチューブが見え、点滴が置かれていた。

    SH: (電話で)Mary Morstanは1972年10月に死産となっている。チジック霊園に墓がある。そこで-五年前-君は彼女の名前と生年月日、すなわち身元を取得した。

    Maryはゆっくりと廊下を進んでいく。

    SH: (電話で)その日より前に君が「友達」を持たないのはそういう訳だった。

    -Sherlockが221Bのリビングでソファ後ろの壁に貼られた結婚式の計画書類を眺めて立っている。

    SH: (ダイニングテーブルに向かって座るMaryの方へ振り返る)教会での君側の席をどうにかしないと、Mary。ちょっと少ないようだ。

    MW: (微笑んで)ああ、孤児院の人たちがたくさんいるから。友達-わたしにはそれだけよ。

    現在-Maryは廊下を進み続ける。

    SH: (電話で)昔からよく用いられるテクニックだ、ある種の人々には知られている。ひと目でスキップ暗号だと見抜き…

    -221の階段の踊り場でMaryが受け取ったメッセージをSherlockに見せている。

    MW: 最初は聖書の何かかと思ったんだけど、ほら、スパムの、でも違う。スキップ暗号なのよ。

    Sherlockはじっと彼女を見る。

    現在-廊下を進むMaryは徐々に端に座っている人物へと近付いていくが、顔はまだ影になっていてよく見えない。人物が座る椅子の後ろには点滴があり、モルヒネのディスペンサーが取り付けられている。

    SH: (電話で)…ずば抜けた記憶力を持つような…

    -結婚式会場の階段の途中、Sherlockは両手の指を左右のこめかみに当てて目をキツく閉じている。

    JW: 何でどの部屋か憶えてないんだよ?君は何でも記憶してるじゃないか。

    SH: (苛立ちながら)何か削除しないと!

    するとドレスの裾を踏んでしまわないように片方の手で持ち上げながら走ってきたMaryが二人の間を通って階段を駆け上がっていった。

    MW: 207。

    現在-Maryは廊下の半分あたりの場所で立ち止まる。

    MW: あなたは鈍かったわね。

    SH: (電話で)狙撃の腕前はどうなんだ?

    するとMaryはコートのポケットからピストルを取り出して手を下ろしたまま撃鉄を起こす。

    MW: どれぐらいそれを知りたがってるわけ?

    SH: (電話で)僕がここで死ねば、遺体は君の顔が正面に投影されている建物の中で見つかるということになる。それならいくらスコットランド・ヤードでも何かに思い至るだろう。

    Maryは廊下の先に座る影の人物を見つめながら、同意を示してうなずいた。影の形から、人物が着るコートの襟が立っているのがわかる。

    SH: (電話で)君がどれほどの腕前なのか知りたいんだ。(そっと、促すように)さあ。見せてくれ。この頃はもう医者の妻でいることに少しばかり退屈してるんだろ。

    ピストルを握り直しながらMaryは視線を下ろして肩に提げていたバッグから50ペンスのコインを取り出した。親指と人差し指の先を合わせてからその上にコインを乗せる。天井を見上げて高さを見積もると指を弾いてコインを高く投げ、それが落ちる前にピストルを掲げて撃った。空の薬莢が彼女の前の壁に当たる音がする。Maryは背を向けて視線を落とし、コインが床に落ちるのを見なかった。そして再び影の人物へ振り返る。すると彼女の背後にある壁に人影が現れ、玄関の扉から誰かが入ってきた。その人物は巻き毛で襟を立てたコートを着ていたのですぐにSherlockだとわかる。電話を下ろして通話を切り、Maryへ歩み寄る。

    SH: 見ていいかな?

    Maryは廊下の先にいる影の人物を見つめ、がっかりしたように少しうなだれてSherlockの方へ振り返った。静かに笑っている。

    MW: ダミーだったのね。

    ヘッドセットを耳から外す。

    MW: かなりわかりやすいトリックだったのに。

    そう言いながら数歩先へ進むと、廊下を滑らせるようにSherlockに向けてコインを蹴った。Sherlockはコインを足で踏んで止める。ゆっくりと向かってくるMaryを見てから屈んでコインを取る。起き上がって話し出す彼の声は回復していない傷のために苦しそうだった。

    SH: それからまだ。6フィート(※約183センチ)以上離れた状態で、君は「死の一撃」を果たせなかった。

    銃弾で穴の開いたコインを掲げて見せるSherlockは見るからに最悪の状態だった。足元がおぼつかず、わずかに汗をかいている。呼吸が乱れながらも話を続ける。

    SH: 入院させるのに十分な程度に、死なない程度に。あれはミスではなかった。

    微かに笑みを浮かべる。

    SH: 外科手術だったんだ。

    Maryはしばし目を合わせ、視線を落とした。

    SH: 事件を扱おう。

    MW: (再び彼を見て)事件って?

    SH: 君の。(少し怒った様子で)どうして最初に僕のところに来なかった?

    MW: 嘘をついたことをJohnに知られるわけにはいかないからよ。あの人は打ちのめされて、わたしは永遠にあの人を失う-いいえ、Sherlock、わたしは絶対にそうはさせない。

    Sherlockは立ち去ろうとするかのように振り返る。Maryは一歩進み出る。

    MW: お願い…

    Sherlockは顔を向ける。

    MW: …わかってちょうだい。それを阻止するためならわたしは何だってする覚悟がある。

    SH: (再び顔を背け)すまない。

    するとSherlockはヒューズ・ボックスに歩み寄り、スイッチのひとつに手を掛けて彼女に顔を向けた。

    SH: 「わかりやすいトリック」でなくて。

    スイッチを切り替えると廊下の照明がすべて灯された。真実を悟ったかのようにMaryは不安に陥る。視線を落として重く息を吐き出し、明らかとなった廊下の先にいる人物へと振り返ると、はっと息を呑んだ。そこにいた彼女の夫、Johnはそれを受けた者が凍りつくような冷たい怒りの籠もった眼差しで、じっと妻を見据えていた。髪をクシャクシャにして、黒い上着の襟を立てている。彼は何も言わず、ゆっくりと立ち上がって髪を直し始めた。-Sherlockを撃つことさえ出来た-過去にも様々な仕事をこなしてきたかもしれない-だがMaryはそのとき、夫であるJohn Watsonを心底怖れた。そして彼を失うことを。

    SH: (そっと)話し合いだ、事態を整理する。すぐ取り掛かろう。

    Johnは掻き合わせて着ていたコートを広げ、襟を下ろしてから肩の位置を合うように整えた。苦悩に満ちたため息をこぼすMaryへ歩み寄り、少し離れたところで立ち止まる。場面はそこでゆっくりと暗転した。

     

    ※レンスター・ガーデンズ

    …ロンドン中央ウェストミンスターのベイズウォーターにある通り。通りに沿って繋がって建てられている家の23、24番は「偽のファサード(建物の正面)のみ」となっている。建築された1860年代後半、開通していたロンドンの地下鉄では蒸気機関車が使われていて、煙を地上へ逃がすための換気口が必要だった。その上の地域に居住する人々の目に触れないようにするため「偽の家」で隠した。厚さは約1.5メートル。ファサードのみとなっている23、24番は窓が灰色に塗りつぶされ、玄関のドアにはドアノブ、郵便受け口が無い。-Wikipedia「Leinster Gardens(英語版)」より

     

    ※空っぽの家

    …the empty houses。原作The Adventure of the Empty House(空き家の冒険)でHolmesは並外れた狙撃の腕前を持つモラン大佐が221の向かいにある空き家から彼を狙撃すると察知し、221Bの窓際に彼の姿を精密に再現した蝋の胸像を置く。そしてWatsonと共に空き家でモラン大佐を待ちぶせする。

     

    ※ドラマ仕立て

    …原作「海軍条約文書事件」でのHolmesの言葉。「こんな風に驚かせて申し訳ない。しかしこちらのワトソンが知っているとおり、僕は劇的なことをしてみたいという発作を押さえられないのです」

     

    ※クラレンス・ハウスの人食い(the Clarence House Cannibal)

    …クラレンス・ハウスはプリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)の公邸。裕福でエリートなイギリス人、そしてイギリス王室はかつて美容と長寿のために人肉を薬として用いたり、食用としていたという告発がされている。(参考 Metro: British royals ‘used to be cannibals dining on human flesh’)

     

     

    聖歌隊の歌うクリスマス・キャロル、 “Hark, the Herald Angels Sing(天には栄え)”が聞こえる。音質からしてラジオから流れているようだ。赤い壁のコテージからSherlockとMycroftの父親-グレーのズボン、グレーのカーディガン、白っぽいチェックのシャツに鮮やかな赤の蝶ネクタイをしている-が外へ出てきた。家のそばに積んである小さな薪の山から二本の薪を取って中に戻っていく。かなりうんざりした様子のMycroftの声が聞こえてくる。

    MH(画面外): まったくもう、まだ二時なのか。かれこれ一週間はクリスマスをやってる気がするぞ。

    カメラの視点は窓越しにキッチンを眺めている。スーツのズボンにシャツとネクタイ、上はウエスト・コートだけの姿でキッチンにある大きなテーブルに向かって座っているMycroftは飽き飽きした様子で額を拭う。カメラが覗いている窓辺に沿って葉飾りに巻きつけられたクリスマスの飾り電球があり、キッチンの反対側にある窓のカーテンレールにも同様に飾り付けがされている。電球の線は窓のそばに掛けてある一枚の絵まで続き、終わりの方で余った部分は無造作に床に向かって垂らされていた。キッチンのテーブルの上には赤い紙ナプキンやカトラリーが添えられた大きな皿などの食器類や、ミンス・パイ(※ひき肉にレーズンや林檎、香辛料などを混ぜたミンス・ミート入りのパイ。イギリスではクリスマスに欠かせない料理)など様々なものが置かれている。画面外から誰かがテーブルにある木製のバスケットにクリスマス・クラッカーを入れた。濃いダーク・グレーのシャツに黒いスーツを着たSherlockがテーブルのそばにある肘掛け椅子に座っている。

    MH: (やはりうんざりした様子で)まだ二時なんてあり得ないだろう?私はもう辛抱ならない。

    Sherlockが眺めているThe Guardianの一面には“Lord Smallwood suicide [Smallwood上院議員 自殺]”と題された記事が載っていて、「汚辱を受けた貴族が自ら命を絶つ」「手紙のスキャンダルにより63歳で生涯を終えた」とあった。Holmes夫人の声が画面外から聞こえる。

    Holmes夫人: “Mikey”、これあなたのラップトップなの?

    テーブルの端に立っているHolmes夫人はテーブルの上に置いてあるシルバー・グレーのラップトップを指さしている。上にはいくつかの皮の剥かれたジャガイモとその皮が乗ったまな板が置かれていた。

    MH: ああ、それがこの「自由な世界」の安全保障を担っているんですよ…(皮肉な笑みを母親に向ける)…あなたはその上にジャガイモを置いてますけどね。

    Sherlockは二人を一瞥する。

    Holmes夫人: (Mycroftに)あらそう、そんなに大事なものならこんなとこに置いとかないでちょうだい。

    そう言ってHolmes夫人はクラッカーの入ったバスケットを取ったが、Mycroftがキッチンへ手振りをしながら不平を鳴らすと再びテーブルの上に置いた。

    MH: 何でまたこんなことを?いつもはこんなことしないでしょう。

    少し腹を立てた様子でHolmes夫人はテーブルに寄り掛かった。

    Holmes夫人: Sherlockが退院してきたからみんなで集まってるの。わたしたちみんなでお祝いするのよ。

    Mycroftは偽善たっぷりの笑みを浮かべて母親を見上げる。

    MH: 私も「お祝い」を?それは把握してなかった。

    Holmes夫人: (バスケットを手に取って)いい加減にしなさい、“Mike”。

    MH: 最後まで思い出せないようですから言っておきますが、あなたがつけた名前は“Mycroft”です。

    そこへBill Wigginsが入ってきた。カットしたフルーツの浮かぶパンチの入ったグラスを持っている。

    Bill: これどうぞ。

    Holmes夫人は彼からグラスを受け取った。

    Holmes夫人: あら!どうもありがとうね。

    そこでふと彼を見る。

    Holmes夫人: 何であなたがいるのかさっぱりわからないけど。

    そう言いながらパンチを飲む。

    SH: 僕が招待した。

    Bill: 俺、子分なんです、Holmesさん。息子さんが死んだら、俺が「あの仕事」の後を継ぐんですよ。

    Holmes夫人は少し訝しげにBillを見ている。

    SH: (新聞を読みながら、はっきりと)それはない。

    Bill: そんな。ちょっとは役に立ってるだろ。

    SH: まあな。

    Holmes夫人、そしてMycroftもBillを見る。

    Bill: もしこの人が殺されるか何かしたら…

    Mycroftと母親は愕然とする。

    SH: (新聞を読みながら)そこらへんで止めておけ。

    Bill: OK。

    MH: (Sherlockに)お前が友達を連れてくるなんて結構なことだな!

    Holmes夫人: (グラスを下ろして)やめてちょうだい。わたしの息子の身体に誰かが弾を撃ち込んだなんて…(クラッカーの入ったバスケットを手にしてSherlockへ歩み寄るが、Mycroftの方へ振り返り)…もしそいつを見つけたら、わたしは恐ろしい怪物になるでしょうよ。

    そう言いながらHolmes夫人はそばにある作業台で何かを見つけたようだった。

    Holmes夫人: ああ、これはMaryにだったわね。(見つけた何かを手にしてキッチンから離れる)すぐ戻るから。

    口元で両手を握り合わせていたSherlockは左手を下ろして腕時計を眺めた。心の中にあるストップウォッチがその上に現れ、カウントダウンは7分37秒になっている。それを確認して再び両手を合わせた。

     

     

    クリスマスの飾り付けがされているコテージの居間でHolmes氏が暖炉に備え付けられている扉を開いて炎の中に二本の薪を置いた。Holmes夫人が部屋に入る。

    Holmes夫人: ああ、Mary。

    マグを持って、暖炉に向かって肘掛け椅子に座っているMaryに歩み寄る。Maryは腹部と脚にブランケットを掛け、本のページをめくっていた。

    Holmes夫人: これどうぞ。

    Maryは微笑んで夫人からマグを受け取り、飲み物を口にした。

    Holmes夫人: お茶でも飲んでてね。それと、もしお父さんが鼻歌でも口ずさみ始めたら、小突いてやってちょうだい。いつもそうなんだから。

    Maryはクスクス笑い、Holmes夫人も含み笑いをする。Holmes氏は手の汚れを払いながら暖炉から起き上がり、両手をズボンのポケットに突っ込んで二人の方を向いた。鎖を付けた眼鏡を首から下げている。どうやら妻の提案を聞き入れ、『Larry Graysonみたいに』することにしたらしい。顔を向けるMaryとHolmes夫人に微笑みかける。Maryは眺めていた本の表紙が見えるように掲げた。本のタイトルは“The Dynamics of Combustion [燃焼の力学]”、著者はM. L. Holmesとなっている。

    MW: (Holmes夫人に)これ、お書きになったんですか?

    Holmes夫人: あら、そんな大昔のものなんて。読んじゃダメよ。数学なんて今となっちゃ何の役にも立ちやしないんだから!

    そう言って振り返ると、Holmes氏は宙を見つめながらひとりで静かに鼻歌を口ずさんでいた。

    Holmes夫人: (歩み寄りながら)ほら、鼻歌は止めなさいってば!

    夫人は夫の背中を優しく叩く。Maryはお茶を飲みながら夫人に微笑みかける。夫人は部屋を出ていき、ドアを閉めた。Holmes氏がMaryに笑みを向ける。

    Holmes氏: ほんとに変わってるだろう、私の妻は。でも天才にはありがちなんだよ。

    MW: 数学者でいらしたんですか?

    Holmes氏: 子供のためにすべてを断念してね。

    Maryは笑みを返して再びマグに口を付けた。

    Holmes氏: 妻とは口喧嘩なんてとても出来やしないよ。私はさながら間抜けといったところでね。しかし彼女は…(少し視線を外してから再びMaryに顔を向け、彼女に向かって少し身を屈めながら微笑んで)…とんでもなくイカしてる!

    MW: (クスクス笑いながら)あらまあ。あなたはまともな方だと思ってましたけど?!

    Holmes氏: (眉毛を上げて見せて)君はどうだい?!

    Maryは微笑みながら視線を落としてお茶を飲んだ。すると部屋のドアを開けてJohnが入ってきて、Maryをわずかに一瞥すると自分の方を見ているHolmes氏へ顔を向けた。

    JW: おっと。

    Maryは気まずそうに本へ視線を落として適当にページをめくる。

    JW: すみません。ぼ、僕は、その…

    Maryは本のページをめくりながらうつむいたままでいる。Johnは彼女を再び一瞥した。

    Holmes氏: ああ、え、ええと、二人だけにした方がいいかな?

    そう言ってHolmse氏はJohnを見ながらドアへ向かい出した。

    JW: 差し支えなければ。

    Holmes氏が立ち止まってMaryの方を見ると、彼女はわずかに上げた顔を少し震わせてから再びうつむいた。

    Holmes氏: ああ、もちろん構わんよ。わ、私も何か手伝うことがあるか見に行ったり…しなきゃならないからね。

    そう言って部屋を出てドアを閉めた。Johnはそれを見届けると鼻を指で擦りながらMaryの方を向いた。しばらく本を見下ろしていたMaryが顔を上げるとJohnは部屋の中へ進み、彼女の方を向いて暖炉の前に立った。再び彼を一瞥したMaryは本へと意識を戻した。

    ドアの反対側では、椅子から立ち上がったSherlockがそばにある壁に歩み寄ってコート掛けからコートを取っていた。ドアのそばに立つHolmes氏が彼を見ながら居間の方を指差す。

    Holmes氏: あの二人。だいじょうぶなのか?

    SH: (コートを着ながら)さあな、まあ-彼らにも「浮き沈み」がある。(※)

    そう言って居間のドアの方を一瞥すると、そばにある別のドアから出ていった。

     

    ※浮き沈み

    …“they’ve had their ups and downs”「人生には良いこともあれば悪いこともある(栄枯盛衰)」-19世紀のイギリスの小説家、ウィリアム・メイクピース・サッカレーのThe Virginians(バージニアの人々)にある“They had had their ups and downs of fortune.”から?

     

    しばし画面が暗転した後で、場面は再びレンスター・ガーデンズの細い廊下へ戻った。途切れた時そのままで、MaryとJohnは少し離れて向き合いながら立っていた。Maryの後ろでSherlockが振り返る。

    SH: (静かに)ベイカーストリート。すぐに。

    Sherlockはそう言って出ていったが、Maryは苦悩に満ちた表情で夫を見つめたまま、そこに立ち尽くしていた。わずかに間を置いてJohnは彼女に目を向けたまま、食いしばる歯を少し見せながら前に進み出し、そのまま横を通り過ぎていった。Maryは泣き出すのを堪えるかのように鋭く息を吸い込んだ。

    221Bに戻ったJohnはリビングのドアを開け、静かにため息をつきながら中へ入った。Maryは後から階段をゆっくり上がり、Sherlockがその後をついていく。Johnは上着を脱いでダイニングテーブルの上に置いた。キッチンにいたHudson夫人が心配そうに駆け寄る。

    MrsH: John。

    Maryもリビングに入る。Sherlockはうなだれたまま手すりに寄りかかり、ゆっくりと後をついていく。

    MrsH: Mary!

    Hudson夫人に少し笑みを向け、Maryは暖炉の方へ進む。Johnは腰に両手をあててダイニングテーブルのそばに立っていた。Sherlockはよろめきながらリビングの入り口に辿り着くと、そこに立ち止まって片手で開いているドアの端に寄り掛かった。

    MrsH: (ショックを受けた様子で)まあ、Sherlock!どうしちゃったの、そんな状態で。

    SH: あんたんとこのキッチンにあるモルヒネをくれ。尽きてしまった。

    MrsH: モルヒネなんか持ってないわよ!

    SH: (イライラして)じゃあ一体あんたは何のためにいるんだ?

    Hudson夫人は息を呑んで堅く口を結んだ後で部屋にいる全員を見回した。

    MrsH: 何が起きてるの?

    JW: 「素晴らしい」質問だな。

    SH: (Johnを見ながら)Watson夫妻はこれから夫婦げんかをするところだ、それもすぐに、願わくば。僕らにはやるべき仕事があるからな。

    JW: おい、もっと良い質問がある。

    そう言ってJohnはMaryに歩み寄り、怒りを込めて彼女の顔を覗き込んだ。

    JW: 僕が出会った人間は「全員」サイコパスなのか?

    ドアのそばに立つSherlockは思いを巡らせるかのように目玉を上に上げた。

    SH: (間を置いて)そうだ。

    Maryは唇をすぼめ、小さくうなずいて同意を示した。

    SH: そこに至ったことは良いと思う。とにかく、僕らは…

    JW: (憤慨しながら彼の方を向いて叫ぶ)黙れ!

    Hudson夫人はJohnの怒り狂った様子に驚いて飛び上がり、口に手を当てた。

    MrsH: まあ!

    JW: (Sherlockに、通常の大きさの声で)しばらく口を挟むな、これは笑い事じゃないんだからな。(怒りを込めてつまらなそうに笑みを向ける)今回のことは。

    SH: 笑い事だなんて言ってない。

    JohnはMaryに顔を向ける。

    JW: 君。

    振り返ってMaryに向き合い、話し出すJohnは爆発しそうになる怒りを必死で抑えているのが声と表情に表れていた。苦しそうに息を継ぎながら言葉を押し出す。

    JW: 僕が今までしてきたことは…なあ?…人生のすべてを…君に捧げたんだぞ?

    SH: (ドアの右側の柱に寄り掛かっている)すべてだよ。

    JW: (怒りを抑えながら彼の方を向いて)Sherlock、言ったよな…(歩み寄り)…黙ってろ。

    SH: (静かに)なあ、僕は真面目に言ってる。すべて-君がこれまでしてきたことすべては、君がしたことだ。

    JW: (殺意を帯びている抑えた声で)Sherlock、もう一言でも発したら、モルヒネの必要は無くなるぞ。

    SH: (それでも静かに)君は戦争に行った医者だ。

    Sherlockに視線を固定したままJohnは速く、深く呼吸を繰り返す。彼に向かって話すSherlockの声は少し大きくなるが、やはり普段より弱い。

    SH: 君は郊外で大人しく過ごしてられるような男じゃない。ひと月も経つとたまり場に押し入ってジャンキーを打ちのめしたりして。親友は(ドラッグで)高揚感を得る代用として事件の謎を解くソシオパスだし。

    一旦言葉を止める。

    SH: それって僕のことだけどね、一応。(Johnに向かって左手を振って見せる)“Hello”。

    Hudson夫人を指す。

    SH: しかも家主はかつてドラッグのカルテルを仕切ってた。

    MrsH: それは夫のことでしょ。わたしは事務をしてただけ。

    SH: (夫人を見ながら)それに「エキゾチック・ダンス」も。

    MrsH: Sherlock Holmes、もしYouTubeで観たのを…

    SH: (声を大きくして夫人の声に被せ)John、君は特殊な生き方に病み付きになってる。異常に惹かれてしまうんだ、危険な状況や、そういった人間に…(再び声を抑えて)…その傾向に一致する女と恋に落ちたって、そんなに驚くようなことでもないだろう?

    Johnは顔をしかめ、目線をSherlockに合わせたまま暖炉のそばに立っている妻を指差した。

    JW: (泣き出すのを必死に堪えながら)でもそんな女だと思ってなかった。

    Hudson夫人はショックを受けた様子でMaryを見る。Maryはうつむいている。

    JW: (再び指差しながら、Sherlockに向かって少し強い声で)どうしてそんな女を?

    Sherlockはしばしソファ後ろの壁に向けて視線を逸らした後で、Johnの目をじっと見据えた。

    SH: 君が彼女を選んだんだ。

    見つめ返すJohnの表情から彼がどう思っているのか読み取るのは難しかった。Sherlockは視線を受け止め、そっと問い掛けるような眼差しを返す。やがて顔を背けたJohnは心の内を曝け出した。ダイニングテーブルに歩み寄り、問いかけるように肩をすくめて両手を掲げる。

    JW: どうしていつも…全部…僕のせいなんだよ?!

    叫びながらJohnは腹立ちまぎれにダイニングチェアを蹴り飛ばした。Hudson夫人は飛び上がって怯えている。Sherlockですら少し飛び上がったが、Maryはじっと立っていた。

    MrsH: ああ、お隣さん!

    そう言って夫人は逃げ出していった。Johnは息を乱しながらMaryに向き合う。

    SH: (静かに)John、聞いてくれ。落ち着いて、答えてくれ。(ゆっくりと、正確に)彼女は何だ?

    JW: (繰り返し目を瞬きながら、Maryに視線を向けたままで)僕の嘘つきの妻?

    SH: 違う。彼女は何だ?

    JW: (Maryを見続けながら)僕の子供を身籠っている、出会ったときからずっと僕を騙していた女?

    MaryはじっとJohnを見つめ返す。

    SH: 違う。この家においては、この部屋では。この場所で、今ここで、彼女は何だ?

    するとJohnは妻に目を向けたまま、強張った顔でつまらなそうに小さな笑みを浮かべた。顎を引いて残忍そうな様子を見せる。そしてしばらく間を置いてから苛立たしい素振りで深く鼻から息を吸い込んだ。

    JW: わかったよ。

    わずかにSherlockの方を向いてから、Maryに向き直る。

    JW: (肩越しにSherlockへ)君のやり方で。

    しばしMaryを見てから、半ばSherlockの方へ身体を向ける。

    JW: いつも君のやり方だ。

    Sherlockは何かを堪えるようにうつむいて視線を逸らした。Johnは咳払いをするとダイニングチェアのひとつを取り、二人の肘掛け椅子と暖炉に向き合うように置いてからMaryへ言った。

    JW: 座れ。

    MW: どうして?

    JW: (彼女へ向かって身体を傾けてダイニングチェアを指しながら、抑えながらも怒りを帯びたささやき声で)ここに座るって決まってるからだよ。

    姿勢を直し、怒りを抑えた声を少し大きくして続ける。

    JW: …相談事があってここにやって来た人たちの席。い、依頼人-今の君はそれだ、Mary。君は依頼人だ。ここに君が座って話をする…(肘掛け椅子を示して)…そしてこっちに僕らが座って話を聞く、そんで僕らが君を必要とするかどうか決めるんだ。

    そしてJohnは鼻をすすりながら自分の椅子に歩み寄って腰を下ろし、咳払いをして背中にあるクッションの具合を直した。間を置いてSherlockも部屋の中に入る。束の間にMaryの前に立ち止まって目を合わせ、小さくうなずいて見せてから自分の椅子に座った。Maryはそれを見て、椅子に寄り掛かったまま目を合わせようとしないJohnの様子を窺ってからゆっくりと彼らの間にある椅子に歩み寄るとバッグを床に置いて腰を下ろした。コートの具合を整え、脚の埃を払い、少しズボンの裾を直してから、自分の方を見ているJohnへ顔を向けた。

     

     

    現在。Holmes家のコテージの居間で、Maryは本から顔を上げて話し出すJohnを見た。

    JW: で、具合はどう?

    MW: (皮肉を込めた調子で)あら!今日は会話をしようとしてくれてるの?ほんとにクリスマスらしいわね(!)

    するとJohnはズボンのポケットから何かを取り出し、それを彼女に見せた。シルバーの少し大きめのUSBメモリ、端にはキーホルダー用のリングが付いている。(持っている手の指で見えにくくなっているが)表面に黒いマジックで「A.G.R.A.」(※)と書いてある。Maryは本を閉じて、少し腹立たしげなため息をこぼした。

    MW: 今?

    Johnはうなずいて、メモリの表面に書かれた少し薄くなった文字を自分の方に向ける。

    MW: 本気なの?何ヶ月も沈黙してたのに、これをやろうっていうの?…(メモリを顎で示して)…今?

    Johnは手を下ろし、感触を確かめるかのようにメモリを手の中で弄んだ。

     

    221Bに戻る。SherlockとJohnに向き合ってダイニングチェアに座っているMaryが、あのUSBメモリを取り出してJohnの椅子の横にあるエンドテーブルの上に置き、手を戻した。痛みを堪えて顔をしかめているSherlockがメモリの表面に書かれている文字-この時は幾分、濃かった-に注目する。

    SH: 「A.G.R.A.」とは何だ?

    MaryはSherlock、そしてJohnを順に見てから咳払いをする。

    MW: わ…わたしのイニシャル。

    Johnは顔をしかめて目を背ける。Sherlockは視線を落とし、彼を一瞥する。

    MW: わたしが何者だったかはすべてそこに入ってる。(Johnに向かって)もし愛してくれてるなら、わたしの前では中を見ないで。

    JW: (肩をすくめながらテーブルに近い方の手を持ち上げて)どうして?

    MW: (泣き出すのを堪えている様子で)見終えたときにはもうわたしを愛してくれないだろうから…

    Johnは彼女の視線を受け止めている。

    MW: …そうなるのを目の当たりにしたくないの。

    そう言ってMaryはうつむいた。大きくため息をついてJohnはテーブルからひったくるようにメモリを取り、わずかにSherlockへ視線を向けてからズボンの左ポケットに押し込んだ。鼻をすすりながら椅子に高く座り直す。MaryはSherlockに顔を向ける。

    MW: もうどこまで知ってるの?

    SH: (依然として、普段より静かな声で)その腕前から判断して、君は諜報部員、もしくはかつてそうだった。現在は訛りのない英語を話しているが、元はどうだか疑わしい。君は何かから逃れてきた、姿を消すためにそのスキルを利用して…

    Johnは耳にしていることが信じられない様子で首を振った。

    SH: …Magnussenは君の秘密を知っている、だから君はあいつを殺そうとした。そして推測するに、君がJanineを親友にしたのは…(椅子の上で居心地悪そうにしながら顔をしかめて)…あいつに近付くためだった。

    MW: あら-あなたさすがね!

    Sherlockは彼女に向かって微笑んだ。

    JW: へー。何だよ、君たちは。

    椅子の肘置きから手を上げず、両手の人差し指だけを持ち上げて二人を指す。

    JW: 君たちが結婚すりゃ良かったんだ。

    MaryはJohnを見て、Sherlockは何度か目を瞬いた。

    MW: Magnussenが持ってるわたしの情報、それでわたしは一生、刑務所暮らしになる。

    JW: そんで奴を殺してしまおうってわけか。

    MW: Magnussenみたいな人間は殺されるべきなのよ。だからわたしのような人間が存在するの。

    JW: (左手でそっと肘置きを叩きながら)完璧だね(!) で、それが君のやってたこと?殺し屋か?

    Sherlockへ視線を向ける。

    JW: どうしてわからなかったんだろ?

    そう言ってMaryに向き直る。

    MW: あなたはわかってたのよ。

    Johnは再び強張った、少し殺意を帯びた笑みを浮かべる。

    MW: (少し間を置いて)…それでもわたしと結婚した。

    再び言葉を止めてからSherlockに顔を向ける。

    MW: この人の言う通り。

    そう言われていつもなら喜ぶSherlockも、この時は少しうつむいた。

    MW: (そっと、Johnに)あなたはそういう人なの。

    Johnは無情な顔で彼女を見ている。Maryはしばしそれを受け止め、視線を落とした。

    SH: で…Mary…

    顔をしかめる。

    SH: …Magnussenが持っている、君を悩ませる書類を、君は…(再び顔をしかめ、身体の痛みを堪えている様子で絞り出すような声になり)…引き出して、取り戻そうと。

    MW: どうして助けようとしてくれるの?

    SH: 君は…僕の命を救ったから。

    JW: お、おい、何だって?

    SH: (Maryを見ながら)僕が君とMagnussenに割って入ったことで…

    そこで痛みを必死に堪えながら、肘置きに置いた手に寄り掛かって荒く呼吸を繰り返す。

    SH: …君は問題に直面した。

    カメラの視点がリビングの床からドアへ向かって引いていく。

    SH: (画面外)より具体的に言えば、目撃者が現れた。

    ドアのそば、Sherlockの影が床に滑り込む……

    …しかしそれは221Bにおいてではなかった。過去に戻り、SherlockがMagnussenのペントハウスでドアの隙間から部屋の中を慎重に覗きこんでいる場面へ。両手を掲げ、うなだれながら床にひざまずいているMagnussenに黒ずくめの暗殺者がピストルを向けている。

    CAM(声): さて、どうする?

    場面が早送りされ、Sherlockにピストルを向けて立つMaryの後ろでMagnussenが床に落ちている彼の携帯電話に左手を伸ばしている。

    CAM(声): 二人とも殺すか?

    Maryが引き金を引くとスローモーションで銃弾が飛び出していった。

    SH(声): 解決策は、当然、シンプルだった。二人とも殺して立ち去る。

    すると今度は、Maryが狙っていたのはSherlockの胴体ではなく、放たれた銃弾は真っ直ぐに彼の額に向かっていった。Sherlockは目を閉じ、口を大きく開いて後ろに倒れ出す。その身体が床に着く前にMaryは素早く振り返り、銃声に驚いて起き上がるMagnussenの頭を撃った。スローモーションでMagnussenとSherlockは床に倒れる。

    SH: (現在、221Bで)しかしながら、感傷が君の良心を突き動かした。

    過去のMagnussenの部屋、先ほどの場面が巻き戻される。Magnussenの身体が起き上がってひざまずく体勢に戻り、銃弾はピストルに戻り、Maryの身体はまだ倒れていないSherlockと向き合う状態へ逆戻りする。

    SH(声): 緻密に計算された一発で僕を動けなくした…

    Maryが銃弾を放つと、今回は胴体を撃たれたSherlockが後ろに倒れていく。

    SH(声): …僕の口を封じるための時間をより稼げることを期待して。

    [ここでSherlockは“ it would bide you…”と言っているが、本当は‘buy’と言うべきだったと思われる]

    Sherlockの身体が床に着く前に、既にMaryはMagnussenへと振り返っている。

    SH: (現在、221Bで)当然ながら、君はMagnussenを撃てなかった。(Johnへ顔を向けて)その夜、僕らは二人でビルに侵入していた。夫は容疑者とされてしまうだろう。だから…

    MaryはMagnussenの顔をピストルで打ち据えた。Magnussenの顔から眼鏡が吹っ飛び、彼はウルトラ・スローモーションで床に倒れていく。

    SH: (画面外から声が入ってくる、痛みを堪えながら少しずつ言葉を絞り出す)…君は計算した…Magnussenは…君の行為を、警察と情報共有せずに、むしろ利用するだろうと…それがあいつの手口だ。

    Magnussenの部屋、スローモーションでMaryは開いているドアへ向かっていく。

    SH: (現在、221Bで)…そして来たときの方法で去った。

    現在、うつむいていたMaryは彼に向かって視線を上げた。不愉快そうな表情で彼を見ていたJohnは視線を妻に向ける。

    SH: (Maryに)見落としたことはあるか?

    JW: どうやって君の命を救ったんだ?

    SH: 救急車を呼んだ。

    JW: 僕が救急車を呼んだんだ。

    SH: 最初に呼んだのは彼女だ。

    Magnussenの顔をピストルで殴ったMaryは直ちに床から彼の携帯電話を取り上げた。身体が起き上がる前に三つの数字が入力される音が聞こえる。画面を見もせずに入力された番号がカメラの視界に赤く表示される。

    999 EMERGENCY

    [999 救急 (※日本における119番)]

    オペレーター(電話): 緊急救命です。どのサービスをご用命ですか?

    そして救急車のサイレンが聞こえてくる。

    SH: (現在、221BでJohnに向かって)君が僕を見つけたのは五分経ってからだ。それに頼っていれば、僕は死んでいただろう。ロンドンの救急車が現場に到着するまでの平均時間は…

    左手を上げて腕時計を見ると、221Bのリビングへ向かって階段を駆け上がる騒々しい足音が聞こえてきた。二人の救急救命士が駆け込んでくる。

    救急救命士: 救急車を呼びましたか?

    Johnは困惑しながら立ち上がって救急救命士たちを見る。

    SH: …八分。

    荒い呼吸をして左手を上げたまま、救急救命士へ顔を向ける。

    SH: モルヒネを持ってきたか?電話でそう頼んだんだが。

    救急救命士: (訳が分からず)銃撃があったと聞いてきたんですが。

    SH: あったよ、先週ね…

    上げている左手の手首に右手を添え、脈を確かめる。鋭く息を吸い込む。

    SH: …でも僕の身体は内出血を起こしてるはずだ、脈が非常に不規則になってる。

    両手を肘置きに置いて、身体を持ち上げようとする。

    SH: 再起動してもらう必要があるかも、僕の心臓、途中で。

    「心臓」という言葉のあたりで彼はよろめいて膝から崩れ落ちた。JohnとMaryがあわてて彼の腕を抱えて支えようとする。救急救命士たちが駆け寄る。

    JW: しっかりしろ、Sherlock。しっかりしろ、Sherlock。

    Sherlockはうめき声を出しながらJohnを掴み、肩に寄り掛かる。Maryは救急救命士のために少し離れる。

    SH: John?

    救急救命士が荷物を入れたバッグを床に置き、彼の身体を支えようとするが、Sherlockはそれを無視して鋭い眼差しで友人を見つめている。

    SH: John-問題にすべきなのはMagnussenなんだ。Maryを信じていい。僕の命を救ってくれた。

    JW: (小声で)君を撃ったよ。

    Sherlockは顎を引き、同意するようにうなずこうとした。

    SH: ああ、メッセージが混在しているんだ、その通りだが。

    そして顔をしかめて激痛に声を上げ、倒れ始めた。Johnと救急救命士が彼の身体を床に横たえようとする。

    JW: Sherlock?Sherlock。(救急救命士に)いいです、連れていって。

    Sherlockは再び激痛に叫ぶ。Johnは救急救命士を見ながら彼の身体を離す。

    JW: いいですか?

    救急救命士は痛みに顔を歪めてもがいているSherlockを床に寝かせる。Johnは起き上がって酸素マスクを取り出す救急救命士を心配そうに見下ろす。今、彼に出来ることは無かった。MagnussenのオフィスでMaryに撃たれた時も、その痛みを堪えながら話し合いの場を設けたこの時も、Sherlockが乗るのはJohnが呼んだ救急車ではなかった。「Maryを信じろ」-Johnは彼女を選んだのだ。今の彼が守るべきなのは、Sherlockではない。作業が続く中、Johnは食いしばる歯をわずかに見せながら荒く呼吸をし、Maryに視線を向けた。

     

    現在、Holmes家のコテージの居間。

    MW: で、中はもう見たの?

    Johnは持っているUSBメモリに視線を向ける。手の中で回されてキーホルダーのリングが音を立てる。そしてその手を拳に握り締め、自分のそばの床を示しながらMaryに顔を向けた。

    JW: ちょ、ちょっとこっちに来てくれるかな?

    MW: (首を振り)いいえ。教えて。見たの?

    JW: (苛立った声で)いいから…

    言葉を止めて苛立ちを抑える。

    JW: (落ち着けた声で)…こっちに来て。

    Maryは顔をしかめて渋々ブランケットを腹部と脚から取り払って立ち上がり始める。片手を当てている腹部は、ひと目で妊娠していることがわかるまでになっていた。Johnは手伝おうとして歩み出る。

    MW: いいの、だいじょうぶ。

    たじろぎながら彼女が立ち上がるとJohnは引き下がった。Maryが進み出てくるとJohnは身体の片側を暖炉に向けて立った。彼の前に立ったMaryは視線を落とす。Johnはささやきよりも少し大きめに、緊張した様子で声を絞り出す。

    JW: 長いこと、頑張って、君に対して言いたいことは何なのか考えてきた。

    鼻から深く息を吸い込む。Maryは彼に視線を上げる。

    JW: これから言うことを用意してきた、Mary。

    しばしうつむく。わずかに顔をしかめて、微かに震える息を吸い込んでからMaryに視線を戻す。

    JW: これから言うことは慎重に選んだ言葉だ。

    MW: わかった。

    Johnは咳払いをする。再び手の中でUSBメモリを回す音が聞こえる。やがて視線を上げてMaryと目を合わせる。

    JW: (抑えた声のまま)君の過去にあったことは、君だけの問題だ。君の未来に起こることは…僕にも「権利」がある。

    Johnは彼女の目を見て、しっかりと告げた。Maryの表情が少し崩れ、目に涙が浮かび出す。

    JW: 僕が言うべきなのはそれだけだ。僕が知るべきなのはそれだけだよ。

    手にしているUSBメモリを見下ろすJohnをMaryは目に涙を溜めて見つめていた。しばし間を置いてJohnは再び彼女へ顔を上げると、暖炉の炎の中にUSBメモリを投げ込んだ。Maryは泣き出しながら炎の中にあるメモリを眺めた。Johnは再び咳払いをして彼女に向き直る。

    JW: (静かに)ううん、中は見てない。

    彼を見るMaryの目から涙が溢れだした。

    MW: (涙声で)わたしの名前さえ知らないじゃない。

    JW: 「Mary Watson」で十分じゃないか?

    MW: (すすり泣きながら)そうね!(鼻を拭い)そうよね、そう。

    JW: そして僕にもそれで十分だ。

    Johnはそう言って笑みを浮かべた。

    MW: ああ!

    二人は進み出て強く抱き合った。Maryは泣いている。Johnはまだ絞り出すような声で、耳元にささやく。

    JW: だからってもう君のことを完全に怒ってないってわけじゃないんだからな。

    MW: (涙声で)わかってる、わかってる。

    JW: すっごく怒ってるし、これからだって露わになるよ、時々は。

    MW: わかってる、わかってる。(鼻をすする)

    二人は身体を離してお互いの目を見つめ合う。

    JW: (そっと)これから芝刈りは君にやってもらうからな。

    MW: わたし芝刈りするでしょ。

    JW: いいや、僕ばっかりだ。

    MW: そうでもないわよ。

    JW: 赤ちゃんの名前は僕が選ぶ。

    MW: それはダメ。

    JW: わかった。

    二人は再びしっかりと抱き合った。

     

    ※「A.G.R.A.」

    …Mary Morstanが登場する原作「四つの署名」はアグラの財宝(the Agra treasure、Agraはインドの街)を巡る話。

    His Last Vow 4

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    original transcripts by Ariane DeVere