ベイカーストリート221B。Hudson夫人はマントルピースからマグとほとんど空になったミルクのボトルを取ってキッチンへ入り、そこの散らかり具合に腹を立てて舌打ちをした。テーブルにマグを置いてミルクをしまうために冷蔵庫を開けると、中から発せられる臭いに顔をしかめた。ミルクを冷蔵庫に入れると不快な臭いを発している物をゴミ箱に投げ込み、中の引き出しにある透明なプラスチック袋を取り出してみる。それをよく見て、中に何があるかわかると恐怖におののいた。

MrsH: ああ、何なの!親指!?

驚いて袋を引き出しに戻すと見慣れない男がキッチンへよろよろと入ってきて、大きく目を見開きながら混乱した様子で不意の訪問客に怯えるHudson夫人を凝視した。

男: ドアが…ドアが…

男の呼吸は乱れ、バタリと床に倒れた。Hudson夫人は少しの間怖がって男を見つめていたが、男の来た理由はわかっていたので大声で叫んだ。

MrsH: あなたたち!新しいお客さんよ!

そしてまた男の方へ少し屈み込んでみたが、彼は意識を失ってしまったようだった。

 

 

その後、男(名前はPhil)は意識を取り戻し、居間の中ほどに置いたダイニングテーブルの椅子に座ってぼんやりと前方を見つめていた。Johnは彼から少し離れた後ろのソファに座っている。Sherlockは歩き回りながらPhilに厳然と言った。

SH: 始めから話してくれ。うんざりさせないように。

Philは14時間前を思い起こす。

どこかの田舎で彼の車は故障してしまっていた。どうやら何度もエンジンをかけようとしたようだったが、エンジンは哀れな音を立てて要求を拒否した。Philは怒ってハンドルを叩きつけると外に出た。今は使いものにならない開いたボンネットを見下ろして、望みのありそうなつなぎをいくつか捻ってみた。あたりを見渡したが田舎の道路には他の通行者が来る気配は見当たらない。彼は道路に沿った土地に見入った。地面は少し離れた川へと伸びていて、赤い上着を着た男が川へ繋がる小川の端に立っていた。男は道路に背を向けている。Philはしばらく彼を凝視したが、その人物は道路で何が起きているか気にするには遠すぎるところにいたので結局車に戻ってもう一度エンジンをかけようとした。すると、とうとうひどい音を立てて荒々しくバックファイアしてしまった。Philはため息をつくと川の方を見て、さっきの男が今は地面に横たわっているのに気付いた。車から出て男に向かって呼びかけてみる。

Phil: おい!だいじょうぶか?

しかし男からは何の返事も反応も無い。Philは心配になって男の方へ歩き出した。

Phil: すみません!だいじょうぶですか?

まだPhilには見えないが、男は仰向けに倒れていた。そして頭の下にはたくさんの血が流れ出していた。

 

 

随分経った後、川沿いで警察による現場検証が行われていた。若い警察官がパトカーのそばに立っているCarter警部へ携帯電話を持ってきた。

警察官: お電話です。

Carterは電話を受け取り、車からゆっくりと離れながら話し始めた。

Carter: Carterです。

電話の相手はLestradeだった。ベイカーストリートの道路の端で自分の車の中に座っている。

GL: Sherlock Holmesについて耳にしたことがあるか?

Carter: 誰のことだ?

GL: 今から君が会う男のことだ。これは君の案件だ。完全に君次第だ。これは友好的なアドバイスなんだ、だがSherlockに事件現場で五分時間を与えろ、それから奴が口にすることを聞き逃すな。たとえ可能性から程遠かったとしても殴ろうとするなよ。

Lestradeが話している間に一台の車が事件現場へやって来て近くに止まった。CarterはLestradeが通話を切ると少し困惑し、顔をしかめて電話を見た。その頃には若い警察官がやって来た車の後部座席にいる人物へ向かって屈み込み、話を聞いていた。

警察官: わかりました。

彼は接近してくるCarterの方へ振り返った。

警察官: 警部と話をしたいと仰っています。

Carter: ああ、わかってる。Sherlock Holmes。

しかし車から降りてCarterと握手をしたのはSherlockではなく、Johnだった。

JW: John Watsonです。Wi-Fiはありますか?

 

 

221B。Sherlockがあくびをしながら、裸でシーツにくるまっただけの姿で廊下からキッチンへと入ってくる。どこからかJohnが彼に話しかけた。

JW: ちょっとひどいんじゃないか、これは。

Sherlockはまだ眠そうな様子でサイドテーブルにあるマグを手に取りながら返事をした。

SH: いいよ。だいじょうぶだ。

片手で台の上に置いてあったラップトップを持ち上げ、画面を見ながらリビングへ進んでいった。彼らはSkypeでビデオチャットをしているらしい。

SH: さあ、川を見せてくれ。

JW: こんなはずじゃなかったんだけど。

SH: なあ、六時だぞ。

Sherlockはリビングのテーブルの前に座ってラップトップを置いた。すると玄関のドアベルが鳴ったが、無視してWebカメラの画面を調整し始めた。

SH: 僕は七時前に家を出るなんて無駄なことはしない。合意の上だろ。さあ戻って。草を見せるんだ。

JohnはSherlockとSkypeをしながら小川へ向かって歩いていた。小川の端の草へラップトップのカメラを向けて屈む。

JW: いつ合意したって?

SH: 昨日合意した。待て!

Sherlockは画面へ屈み込んで、地面のぬかるみを見た。

SH: 寄って。

しかしJohnは命令に従うどころか、カメラの向きを変えて自分が映るようにしてしまった。

JW: 僕は昨日家にいなかった。ダブリンにいた。

SH: んん、君が聞いてなかったのは僕のせいじゃないよ。

再びドアベルがしつこく鳴った。Sherlockはイライラして階段の方へ叫んだ。

SH: うるさい!

JW: 相手がいないのに話しかけてたのか?

SH: さあね。どれくらいいなかった?じゃあ、バックファイアした車を見せてくれ。

ため息をついてJohnは立ち上がり、カメラをPhilの車がある道路の方へ向けた。

JW: あそこだ。

SH: あれが音を出したやつなのか?

JW: (カメラを回して覗き込みながら)ああ。そんでもし射撃だと考えてるなら、それはないね。被害者は撃たれてない。後頭部を一撃されて死んだんだ、魔法のように殺人者と共に消えた鈍器で。少なくとも八時間前にね。

その報告を聞きながらSherlockは椅子にもたれ、軽く握り込んだ片方の手の指を唇に当てて考え込んだ。Johnが道路へ向かって歩き出すとCarterが後をついてきた。

Carter: もう二分やるから、運転手についてもっと知りたい。

それを聞くとSherlockは不快そうに顔をしかめて、邪魔なものを振り払うかのような仕草をしてみせた。

SH: ああ、忘れろ。あいつはバカだ。でなきゃどうして自分を容疑者だと考える?

すかさずCarterはJohnを捕まえ、カメラを覗き込んで真面目に宣言した。

Carter: 俺はそいつが容疑者だと思う!

Sherlockはイライラして画面に少し顔を近づけた。

SH: 僕に構うな。

JW: わかった、でもミュートボタンがあるからそれを使うよ。

Johnがカメラの向きを傾けると、それにSherlockは文句を言い出した。

SH: もう少し上に!地面から話をしてるんじゃないんだぞ!

Johnは嫌気がしてきたのでCarterにラップトップを渡した。

JW: いいから、持って、持って。

Carterがラップトップを持つとSherlockは通常の二倍の速さで話し始めた。

SH: 孤立した土地を運転していて、一人の目撃者も無しに首尾良く犯行を行った、なのになぜ警察へ連絡し、さらに探偵にまで相談する?フェアプレー?(!)

Carter: 賢さをアピールしたいんだろう。自信過剰なんだよ。

Sherlockは呆れてため息をつくと、何も知らないCarterに向けて説明を始めた。

SH: こいつを見たのか?病的な肥満、一人暮らしの独身男が発するあからさまな口臭、インターネット・ポルノ中毒者の右袖、それから治療してない心臓病患者の息遣い。低い自尊心、低いIQ、そして限られた余命-それでも君はこいつがこの大胆不敵な犯罪を犯したと思うのか?!

そこまで一気にまくし立てると、SherlockはJohnの椅子に座って不安そうにしているPhilの方へ振り返って声を掛けた。

SH: 気にしないでいい。つまらないことだから。

Phil: 何て言ったんです?心臓が何ですって?

不安気なPhilを無視して、Sherlockはカメラへ向き直って『捜査』を続けた。

SH: 川へ行ってくれ。

Carter: 何が川にあるんだ?

SH: 行って見るんだ。

 

 

CarterがJohnにラップトップを戻すと、スーツ姿の二人の男を連れたHudson夫人が階段を昇ってリビングに入ってきた。

MrsH: Sherlock!あなたドアベルを無視してたわね!

男の一人、Plummerが親指をキッチンの方へ向けながら仲間を見て指示をした。

Plummer: 部屋は後ろだ。服をお渡ししろ。

SH: お前らは誰だ?

Plummer: すみません、Holmesさん。我々と一緒に来ていただきます。

Plummerは前へ進み、Johnが心配して呼びかけているのを無視してラップトップを閉じてしまった。

JW: Sherlock、どうした?何が起きてるんだ?

ラップトップの画面が黒くなると、Johnは半狂乱になってキーボードを叩いたが、反応は返ってこなかった。

JW: 切れちゃった。いったい何が…

そこへ先程の若い警察官が耳に電話を当てながら彼の方へ急いでやってきた。

警察官: Watson先生ですか?

JW: ああ。

警察官: あなたにです。

JW: わかった、どうも。

Johnはまだ画面を見ながら、電話を受け取ろうと手を伸ばした。しかし警察官は電話を渡そうとしなかった。

警察官: ああ、違いますよ。ヘリコプターです。

そして二人は振り返って、川の端の陸地へやってきたヘリコプターを呆然と眺めた。

 

 

221B。Plummerの仲間は服と靴を揃えてSherlockの前に置いていた。Sherlockは眉を上げて気が乗らない様子で肩をすくめる。

Plummer: お願いです、Holmesさん。これから行くところは正装を求められるんです。

Sherlockは返事をせずにPlummerの方へ顔を向け、推理し始めた。

服を見て: スーツ£700(※約九万円)

胸ポケット、もしPlummerがピストルを持ってきていたらそこにあるだろう場所を見て: 武装していない

親指の爪: 手入れがされている

額: 勤め人

前で組んでいる手の方向: 右利き

靴を見下ろして: 屋内で働く人物

ズボンの折り返しの硬い毛を見て: 小さな犬

同じズボンの高い位置を見て: 二匹の小さな犬

もう片側のズボンの更なる毛を見て: 三匹の小さな犬

 

 

事件現場ではJohnを乗せたヘリコプターが離陸した。

 

 

221B。Sherlockは自己満足して笑みを浮かべ、Plummerの顔を見た。

SH: ああ、どこだかちゃんとわかってる。

 

 

しばらく経ち、ヘリコプターはロンドンへ向かって飛び立っていた。パイロットのそばに座っていたJohnは下の景色を見下ろしていたが、バッキンガム宮殿が見えてくるとますます顔をしかめた。宮殿へ向かいながらパイロットは無線に話し始めた。

 

 

それほど経たない内に、Johnは巨大なクリスタルのシャンデリアがぶら下がっている広くて豪華なホールに通されていた。あたりを少し見回すとエスコート係が近くの部屋へ案内して去っていった。その部屋の中ほどには小さな丸いテーブルがあり、服の束と靴が先に来ていたSherlockの前に置かれていた。テーブルの向かい合わせにソファがあり、まだシーツにくるまった姿のままでSherlockが左側に座っている。彼は静かにJohnを見た。Johnは手を少し広げて『いったいなんなんだ?!』という仕草をした。Sherlockは無関心そうに肩をすくめて視線を逸し、また前方を眺めた。あきらめてうなずきながらJohnはゆっくり部屋へ入り、あたりを窺いながら友人の隣へ座った。しばらく前方を見つめていたが落ち着かない様子で笑いを噛み殺し、改めて部屋を見渡してみる。そしてシーツにくるまっているSherlockの下半身を確認すると再び前方を向いて話しかけた。

JW: パンツは履いてるの?

SH: いや。

JW: そうか。

Johnは静かにため息をついた。少ししてSherlockがJohnの方を見るとJohnも彼を見ていた。目が合うとすぐに二人はこらえきれなくなって笑い出した。

JW: バッキンガム宮殿で、いいね。(自制を試みながら)ああ、灰皿を盗みたいという衝動と必死に闘ってるよ。

Sherlockはまたくすくす笑った。一緒に笑っていたJohnだったが、置かれている状況が理解できずに戸惑っていた。咳払いをして友人に尋ねてみる。

JW: 僕らはここで何をしてるんだ、Sherlock?ほんとさ、何なんだ?

SH: (まだ笑みを浮かべながら)知らない。

JW: 女王様との面会か?

するとそこへ(タイミングよく)Mycroftが隣の部屋からやってきた。

SH: ああ、そうみたいだな。

そう言われてJohnはまたこらえられなくなり、Sherlockもすぐに一緒になって笑い出した。Mycroftが怒って彼らを見たが二人はくすくす笑い続けた。

MH: 少しは大人のふるまいができないのか?

JW: 僕らは事件を解決します、そして僕がブログにそのことと、彼がパンツを忘れたことを書きますよ、ですからそれ以上を期待されても困りますね。

Sherlockは部屋に入ってきた兄を見上げる、その顔からは今しがたまでの愉快そうな様子は消えてしまっていた。

SH: 捜査の最中だったんだ、Mycroft。

MH: 何だ、ハイカーとバックファイアか?警察の報告書にざっと目を通した。明らかに瑣末な事件だろう? 

SH: 明白だ。

それを聞くとJohnは少し驚いてSherlockを見た。

MH: 別の話がある、さあ。

Mycroftは屈み込んで服と靴をテーブルから持ち上げ、Sherlockへ差し出した。弟は無関心そうにそれらを眺める。Mycroftはため息をついた。

MH: 我々はバッキンガム宮殿にいる、イギリス国家の心臓部だ。Sherlock Holmes、ズボンを履きなさい。

厳格な口調で言われてもSherlockは動こうとせず、ただ肩をすくめた。

SH: 何のために?

MH: お前の依頼人だ。

そう言われるとようやくSherlockは立ち上がった。

SH: で、依頼人は?

侍従: 貴いお方です…

Sherlockは部屋に入ってくるきちんとした身なりの男性へ顔を向けた。

侍従: …非常に。

Johnも立ち上がり姿勢を正した。

侍従: そして-ご理解いただきたいのですが-完全に匿名なのです。

彼はMycroftの方を見た。

侍従: Mycroft!

MH: Harry。

微笑みながらMycroftは侍従に歩み寄り、握手を交わした。

MH: 弟の有様についてお詫びさせてもらえるだろうか。

侍従: 徹夜作業であったと想像しますね。

Sherlockはしかめ面をした。

侍従: そしてこちらはJohn Watson先生でしょうな、元・第五ノーサンバーランド鉄砲隊の。

JW: どうも、そうです。

彼らは握手した。

侍従: 私の主人はあなたのブログの熱心なファンですよ。

JW: (驚きながら)ほんとですか?

侍従: 特に「アルミ製の松葉杖」(※)などは楽しんでおられた。

JW: どうも!

Johnは満足してSherlockの方を振り返り、咳払いしてみせた。侍従はSherlockへ歩み寄る。

侍従: それからHolmesの弟さんですね。写真よりも背が高く見えますな。

SH: 良いコートと小さな友人で身辺を保護してるんでね。

Johnを一瞥するとSherlockは不意に彼を押しのけて前を通り、兄へと歩み寄った。

SH: Mycroft、匿名の依頼人はお断りだ。事件の一端の謎には慣れている。両端では多すぎる。(※)

Sherlockは侍従の方を振り返った。

SH: ごきげんよう。

そして部屋の外へ歩き出したが、Mycroftがすかさず背後に引きずっているシーツの端を踏んだので、前へ進んだ際にシーツが身体から引き離されてしまった。Sherlockは立ち止まって怒りながら完全に裸になってしまう前にシーツを掴んで手繰り寄せようとした。

MH: これは国家の重大な問題なんだ。大人気ないことをするな。

まだ背中を兄に向けたまま、Sherlockは怒って歯を食いしばりながら抗議した。

SH: シーツを離せ!

MH: さもなくば?

SH: さもなくばただ立ち去るのみだ。

MH: そうするがいい。

JW: 二人共、ここじゃだめです。

SH: (激怒しながら)誰、だ、依頼人、は?

MH: 自分が立っているところを見て察しろ。お前は国で最も高い地位におられる方にお仕えするんだ。(声を荒げて)いい加減にしろ…

Mycroftは言葉を切って侍従の方を一瞥し、弟がまた振り返る前に怒りを抑えようとしたが、厳しい口調で続けた。

MH: …服を着なさい!

Sherlockは怒りでわずかに震えながら目を閉じ、鋭く息を吸い込んだ。

 

※アルミ製松葉杖…Johnのブログ 9月2日: アルミ製松葉杖

 

※事件の一端の謎には慣れている。両端では多すぎる

…原作「高名な依頼人」で、依頼人が何者かを明かすことができないと仲介人に言われた時のHolmesのセリフ。「私は事件の片方に謎があるのは慣れていますが、両端にあるのは面倒すぎます」

ベルグレビアの醜聞 2