死を呼ぶ暗号 1
国立歴史博物館。紫砂泥で作られたものと思われる、中国の古い茶器が茶托の上に並べられていた。東洋的な笛の調べが心地良く辺りを包み込んでいる。若い中国人女性、Soo Lin Yao(以下セリフ: SL)は茶葉をつまんで茶壷に広げ、上から湯を注いだ。見学に訪れた子供たちとその保護者らが彼女の実演を見学している。
SL: 偉大な職人たちによると、茶壷は使い込むほどに美しく磨かれるのだそうです。
ゆっくりと湯を満たし、茶壷の蓋をそっと載せるとその間から湯が溢れ出した。Soo Linは水差しを手に取り、さらに茶壷の上から湯を注いでいく。
SL: 茶壷は繰り返しその表面に茶を浴びて味わいを増します。それが時を重ね泥に堆積することで、このような美しい古色を創り上げるのです。
彼女は濡れたままの茶壷を手に掲げ、その見事なツヤを観客たちに見せた。
SL: 茶に磨かれ、400年も前から受け継がれている茶壷もあります。
しばらく経ち、来場者たちは既にいなくなっていた。Soo Linは丁寧に茶器の水気を拭い、ブラシで汚れを取っている。
館内放送: 当館はあと10分で閉館となります。
若いイギリス人男性の学芸員、Andy Galbraith(以下セリフ: AG)がやってきた。Soo Linが慎重に茶器を箱にしまうのを後ろに立って眺めている。
AG: (冗談めかして)400年経った今でも、お茶を淹れるのに使ってほしいなんてね!
SL: (振り返らないまま)ガラスケースにしまっておくものばかりじゃないの。触れてもらうために、使ってもらうために作られたんだから。
そう言ってSoo LinはAndyの方へ振り返り、彼を見つめた。Andyは動揺を隠しきれず大きく目を見開いて彼女を見ていた。Soo Linはまた茶器へ視線を戻して眉をひそめた。
SL: 茶壷は大事に扱わないと。(箱から乾いてツヤのない茶壷を取り出して)ひびが入ってしまうの。
AG: うーん、お茶をこぼすのがどんな役に立つのか僕にはわからないな。
Andyはぎこちない笑みを浮かべた。
SL: 物の価値を見定めるためには、目を凝らさなければならないときもあるの。
彼女がそう語りながら茶壷を下ろすと、Andyは何かを言おうと心を決めたようだった。そして口を開こうとしたとき、彼女は別の茶壷を取り出して彼に見せた。
SL: わかる?こっちの方が少しツヤがあるの。
Andyは自らを奮い立たせた。
AG: もし良かったら…あの、あのさ、もし良かったらなんだけど…飲みに行かない?(顔をしかめ)お茶じゃなくて、もちろん。あの、パブにさ、僕と、今夜…うん。
Soo LinはAndyを見ないまま茶壷を持った手を下ろした。
SL: わたしと行っても楽しくないでしょう。
AG: でも僕は行きたいんだ、だめかな?
Soo Linはためらいながら、Andyをちらっと見た。
SL: 無理なの。ごめんなさい。もう訊かないで。
そう言いながら彼女は箱を閉じた。
それから少し経ち、夜が来て博物館の正面入口の扉は閉じられ、ほとんどの照明が消された。地下の保管倉庫の一室にSoo Linがいる。道具をしまっているところのようだ。すると近くで何かの物音がした。
SL: (呼びかけて)警備員さん?
何も返事がないので彼女は少し不安になり、わずかにためらいながらも書架を出て辺りを見渡した。
SL: 誰か?
彼女の右手には背の高い像のような物体があり、それを包む白い布が風に揺れていた。Soo Linは恐る恐る近づいて、ためらいながら布に手をかけると思い切って取り払った。布の下に何があったのかはわからないが、彼女はそれを見ると恐怖に包まれた。
----------オープニング----------
スーパーマーケット。Johnはセルフサービスのレジでバスケットから手に取った品物をスキャンしていた。後ろには何人か並んで順番を待っている。続けてスキャンをしていると、自動音声が文句を言い出した。
音声: 商品ではないものがあります。もう一度操作してください。
ベイカーストリート221B。リビングではSherlockが何者かに襲われていた。襲撃者の顔はほとんど布で覆われている、全身にも様々な布を厚く纏い、頭にはターバンを巻いていてシーク教徒のような出で立ちだった。男は大きく曲がった剣を振り回し、Sherlockは後ろへ避けたり屈んだりして攻撃を交わした。ソファまで追い詰められるとSherlockは振り回される剣の下をくぐった弾みでソファへと落とされたが、剣が頭に振り下ろされる前に両脚で思い切り男の腹を蹴って後ろへ追いやった。男がよろめいた隙にSherlockは立ち上がり、反撃の前に大きく息を吐きながらジャケットを下に引いて体制を整え、再び男へ向かっていった。
スーパーマーケット。Johnはプラスチックの袋に包まれたレタスをレジのスキャナの前でゆっくりと動かし、懸命にバーコードを読み取らせようとしていた。
音声: スキャンされていません。もう一度操作してください。
Johnはイライラしながら起き上がり、レジをにらみつけた。
JW: もっと小さな声で話せないもんかね?
襲撃者は両手で水平に構えた剣をSherlockに押し付け、二人はキッチンへと入っていく。Sherlockは仰向けにダイニング・テーブルへと倒され、襲撃者は刃を彼の喉に押し当てようとした。それを阻止するためSherlockが男の右手を押し上げると剣の先が彼の右側でテーブルの表面に当たった。さらにSherlockは左脚を上げて膝で男の横腹を何度か打ち、男の押し付ける力を弱まらせて起き上がろうとした。剣先がテーブルに長い傷をつけた。
スーパーマーケット。Johnは何とかすべての品物をスキャンさせたようで、クレジットカードあるいはデビットカードを機械に通し、PINコードを入力した。
音声: このカードはご利用いただけません。別のお支払い方法を選択してください。
JW: ああ、わかったよ!別のだな!
音声: このカードはご利用いただけません。別のお支払い方法を選択してください。
後ろに並んでいる男性はもう順番が来るだろうと自分のカゴを台に載せようとしている。Johnはズボンの後ろポケットに手を伸ばしたが、別の方法などないことに気付いた。
JW: 無いんだった。
するとJohnは機械を指さして言った。
JW: よし、そのまま、そのまま待ってろ。
後ろの男性は驚いて彼を見たが、Johnは怒りながらその場を立ち去っていった。
Sherlockと襲撃者は再びリビングで戦っていた。襲撃者が剣を振り回すとSherlockはそれを屈んで交わし、すぐに立ち上がって男の背後の方向を指差しながら声を上げた。
SH: あ!
男が彼の指した方向、そして暖炉の上にある鏡に映った自分たちの姿に気を取られた隙にSherlockは少し後ろに引いて男の顎に強烈なアッパーカットをくらわせた。男は気を失ってSherlockの肘掛け椅子に倒れ込んだ。Sherlockは姿勢を正すと鏡を見ながらジャケットとカフスを直して埃を払った。そして服装を乱されたことに腹を立てているかのように男を軽蔑の眼差しで見下ろした。
しばらくして、Sherlockは肘掛け椅子に座り、静かに本を読んでいた。襲撃者の姿はもうなかった。Johnが階段を上がってきて部屋の入口で立ち止まる。いない間に何かあったと感じ取ったのか少し部屋の中を見渡したが言葉には出さなかった。
SH: (顔を上げず)遅かったな。
JW: ああ、買い物ができなくて。
SH: (憤然と本から顔を上げ)え?どうして?
JW: (イライラしながら)ケンカしちゃってさ、店の、レジの機械と。
SH: (本を少し下ろして)え…機械とケンカした?
JW: みたいなもんだ。奴はそこにいて、僕は怒鳴りつけた。君は金あるか?
Sherlockは少しあきれたような笑みを浮かべながら顎でキッチンの方向を示した。
SH: 僕のカードを使えよ。
Sherlockの財布はキッチンのテーブルの上にあるのでJohnはそこへ向かったが、また腹を立てながら同居人の方へ振り返った。
JW: たまには自分で行ったらどうなんだ。朝からずっとそこに座ってばかりで。僕が出ていってからちっとも動いてないじゃないか。
Sherlockの頭に先ほどの襲撃の様子が過ぎった。男が振り回す剣を屈んで交わしている。しかしそれを悟られないよう何も言わず本へと視線を戻してページをめくった。Johnはテーブルから財布を取り、中からカードを探していた。
JW: あの依頼を受けた件はどうなったんだ-Jaria Diamondだっけ?
SH: 興味ないよ。
Sherlockはメモ紙をしおりにしてすばやく本を閉じた。座っている椅子の下に襲撃者の剣が残されていて少し見えているのに気付いたのだ。そしてJohnに悟られないように足で後ろの方へ動かした。
SH: (毅然として)メッセージを送っておいた。
-Sherlockは襲撃者にアッパーカットをお見舞いし、決着をつけた。
Johnは目的のカードを見つけて手にしていたが、テーブルの上に細長くえぐられた傷があるのに気付いたようだった。ため息をつきながら消せないものかとその傷を指で擦り不快そうにつぶやいた。
JW: ああもう。Holmes。
そして同居人の方を向いて舌打ちをした。Sherlockはただ無邪気に首を振り、ニヤニヤしている。Johnは仕方なく部屋を出て階段を下りていった。
その後、Johnが買い物袋を提げてよろよろと階段を上がってきた。
JW: (皮肉を込めて)心配ないよ。僕にだってできる。
リビングの机に座り、肘をついて口の辺りで両手を握りあわせながらラップトップの画面を眺めていたSherlockは、Johnの方を一瞥した。Johnは大きなため息をついてキッチンのテーブルに買い物袋を置いた。Sherlockは熱心にSebastian Wilkesという人物から届いたe-mailを読んでいる。そのすべてを画面上から読み取ることはできないが、SherlockとSebastianはしばらく会っていないこと、SebastianはSherlockが今“consultant”もしくは“consulting detective”であると耳にしたことなどが書いてあるようだった。そして“There’s been an ‘incident’ at the bank” (銀行で「事件」があった)、Sherlockなら解決できるかもしれないと期待している、是非こちらに立ち寄ってほしい、君の判断に任せるつもりだ、とのことだった。Johnはキッチンからリビングの方へ目をやると彼が見ている物に気付いて顔をしかめた。
JW: それ僕のパソコン?
SH: (パソコンに入力を始めながら)そうだよ。
JW: ええ?!
SH: 僕のは寝室にあるから。
JW: 何、それで取りに行くのが面倒くさいって?
Sherlockは返事をしなかった。
JW: (憤慨して)パスワードを設定しておいたのに!
SH: (入力を続けながら)一応ね。推測するのに一分もかからなかったよ。(Johnの方を一瞥して)Fort Knox(※)じゃあるまいし。
JW: (迷惑そうに)そうだね、どうも。
そう言ってJohnは机に駆け寄り手を伸ばしてラップトップを乱暴に閉じてしまった。Sherlockは指を挟む前に手を引っ込める。Johnは自分の肘掛け椅子へパソコンを持ち去って腰を下ろした。Sherlockは肘を机について両手を祈るように口の辺りで握り合わせ、何かを考え始めた。椅子のそばにあるテーブルから手紙の束を手にしたJohnは顔をしかめた。
JW: ああ。
Johnは手紙を繰っていたが、それらは請求書のようで中には緊急に対応しなければならないものも含まれていた。
JW: 仕事を探さないと。
SH: 怠いな。(※“Oh, dull”…退屈、不景気、無気力など)
彼は考えこんでいるようだった。Johnはいったん手紙の束をテーブルに戻して同居人をしばらく見つめていたが、また請求書の山を一瞥して気まずそうに座り直した。
JW: あのさ、あの…もし余裕があったらなんだけど…
Johnはそこまで言いかけたが、Sherlockが自分の世界に入っているのを目にして口をつぐんだ。
JW: Sherlock、聞いてるか?
SH: (振り返らずに)銀行に行かなくちゃいけない。
そう言うと立ち上がってドアへ向かい、コートを手にとって階段を下りていった。Johnは眉をひそめながらも椅子から飛び上がって彼の後を急いで追いかけた。
※Fort Knox
…米国Kentucky州北部の軍用地;1936年以来, 米国連邦金塊貯蔵所の所在地
オールド・ブロード・ストリート、TOWER 42(※)。SherlockはJohnを連れてガラスの回転ドアを通り抜け、Shad Sanderson銀行に入っていった。Johnは友人についていきながら近代的な銀行のロビーの雰囲気に圧倒されていた。
JW: なあ、確かに銀行に行くって言ったけどさ…
Johnが話しかけながら後に続いてエスカレーターに乗っている間に、Sherlockは辺りのあらゆるものを観察していた。ガラスのバリア・ゲートを通るにはカードを電子リーダーに読み取らせなければならないことに特に注目していたようだ。上の階に着くと受付へ行き、応対係に名前を告げる。
SH: Sherlock Holmesです。
※TOWER42
…ロンドンのシティにある超高層ビル。ロンドン全体では五番目に高い。詳しくはWikipedia「タワー42」 シティはロンドン市内にある金融・商業の中心区域(および金融業界)。
しばらくして二人はSebastian Wilkes(以下セリフ: SW)のオフィスに通されていた。後から入って来たSebastianがSherlockへ笑いかけながら歩み寄る。
SW: Sherlock Holmes。
SH: Sebastian。
二人は握手を交わし、Sebastianは両手でSherlockの手を握った。
SW: よう、相棒。どれくらい振りだ?最後に見かけてから八年は経つか?
Sherlockはただ黙って応え、内心彼を嫌っているのを隠そうとしているようだった。SebastianはJohnの方を向いた。
SH: 僕の「友人」のJohn Watsonだ。
強調して言われたその言葉をSebastianはもちろん聞き逃さなかった。
SW: 友人?
JW: 仕事上の。(※)
SW: なるほど。
二人は握手を交わし、SebastianはJohnに好奇の眼差しを向けた。
SW: そうか。
Sebastianは「友人などいるわけないと思ったよ!」とでも言いたげに意地悪な笑みを浮かべた。彼の視線が逸れるとSherlockは少し悲しげに目を伏せたが、その視線はSebastianの腕時計へ向けられていた。Sebastianが離れるとJohnは彼を好ましく思っていないのか、もしくはSherlockの言葉を打ち消したことを後悔しているのか、気まずそうに口を尖らせた。
SW: まあ、座れよ。何か飲むか?コーヒーとか水とか。
Sherlockは黙って首を振った。
JW: 結構です。
SW: そうか?(秘書へ)もう下がっていい。
秘書が部屋を去るとSebastianは自分の机の椅子に座り、二人はその机に向かって並んで腰を掛けた。
SH: 活躍してるようだな。海外にもよく行ってる。
SW: うん、まあね。
SH: 月に二回は世界中を飛び回ってるとか?
Johnは困惑して眉を潜めたが、Sebastianはただ笑ってSherlockを指差した。
SW: そうだ。またあれをやってるな。
そしてJohnに向かって続ける。
SW: 僕らは大学で一緒でね。こいつはよくこんなトリックをやってみせてたよ。
SH: (小声で)トリックではない。
しかしSebastianは気にせずJohnに話し続けた。
SW: 人を見ればその人物の生き様をすべて言い当ててしまう。
JW: ええ、僕も目の当たりにしました。
SW: みんなを驚かせてね。僕らはこいつを嫌っていた。
Sherlockは顔を背け、わずかに悲しそうな表情を浮かべて目を伏せた。Sebastianは構わず話を続ける。
SW: 朝食に食堂へ出て行くだろ、するとこの変人には前の晩よろしくやってたことがお見通しってわけだ。
SH: ただ観察しただけだ。
SW: さあ、教えてくれよ。月に二回の出張、世界中を飛び回ってる-たしかにその通りだ。どうしてわかった?
Sherlockは口を開いたが、Sebastianが先を続けたので何も言うことができなかった。
SW: (ニヤニヤしながら)大方こんなところだろう、ネクタイについてるシミは特別なケチャップでマンハッタンでしか購入できない、とか。
Johnは思わず笑みを浮かべた。
SH: いや、僕は…
SW: (遮って)それとも靴についた泥かもしれないな!
Sherlockは少しの間何も言わずにただ彼を見ていたが、やがて静かに答えた。
SH: 外で君の秘書と話をしたんだ。彼女が教えてくれた。
Johnはその「普通」の弁明に困惑してSherlockの方を見やった。Sebastianは大袈裟に笑い、Sherlockも彼に向けて偽善的に微笑んだ。ひとしきり笑った後でSebastianは両手を握り合わせ、少し真面目な態度になった。
SW: ますます磨きをかけたようで僕もうれしい。さて本題に入ろう。
※「仕事上」の友人
…“colleague”。同僚、仕事仲間を意味する。Sherlockは「ピンク色の研究」でDonovanにJohnを紹介した時にこの言葉を使った。また、自身のWebサイトでJohnのことをそう呼んでいる。SherlockのWebサイト-ピンク色の研究
原作でのHolmesは「友人で仕事仲間」とWatsonを紹介することが多い。
Sebastianは二人をトレーディング部門へ連れて行き、奥にある別のドアへと案内した。
SW: William前頭取-うちの銀行の前頭取の部屋だ。記念物的に残してある。昨晩遅く何者かがそこに侵入した。
JW: 何が盗られたんです?
SW: 何も。ただちょっとしたメッセージを残していった。
Sebastianはドアのロックを外すためセキュリティ・カードを機械にかざした。部屋の中には大きな机が置いてあり、その後ろの白い壁にはWilliam氏と思われるスーツ姿の男性の肖像画が飾られていた。絵の横の壁に黄色のペンキで記号が描かれている。それは数字の「8」に似ているが上が閉じられずに空いていて、さらにその上にはほぼ水平に描かれた棒があった。そして肖像画にも人物の目線を消すように同じ黄色のペンキで水平な線が引かれていた。ペンキの量が多過ぎたのか、線から雫のように垂れた跡がある。Sebastianは二人を机の方へ連れていき、Sherlockがよく観察できるように一歩下がると期待を込めた眼差しで彼を見やった。探偵は意識を集中させて記号を見つめていた。
三人はSebastianのオフィスに戻った。Sebastianは二人に昨晩の監視カメラの映像を見せている。
SW: 60秒毎の映像だ。
ペンキで描かれた記号が壁にある時刻、23:34:01の前後へ映像を戻したり進めたりしていると23:33:01の時点では壁には何も描かれていなかった。
SW: つまり、夜中に何者かがやってきてペンキを撒き散らし、一分以内に立ち去ったんだな。
SH: あの部屋に入るには何通りの方法がある?
SW: ああ、この事件が本当におもしろくなるポイントはそこなんだ。
Sebastianは銀行の受付へ二人を連れていき、そこに設置してあるパソコンでトレーディング部門があるフロアの見取り図を見せた。画面に表示されているドアにはすべてセキュリティの状態を示すランプがついていた。
SW: この銀行内のあらゆるドアは開かれるとすべてここに記録される。戸棚やトイレの扉もすべて。
SH: あのドアは昨晩開けられていなかった。
SW: 我々のセキュリティには欠陥がある。見つけてくれたら報酬を出そう-五桁でどうだ。
Sebastianはジャケットの胸ポケットから小切手を取り出した。
SW: これは前払いとして。侵入方法を教えてくれたらさらに大きな額を出すつもりだ。
SH: 僕は報酬など要らない、Sebastian。
そう言うとSherlockはさっさとその場を立ち去ってしまった。Johnはそれを見届けるとSebastianへ話しかけた。
JW: あいつは、まあ、冗談のつもりなんでしょう、もちろん。
そう言いながらSebastianへ手を差し出した。
JW: よ、良ければ僕が渡しておきましょうか。
SebastianはJohnへ小切手を手渡した。
JW: どうも。
Johnは小切手の内容を見ると、前払い金に過ぎないというその金額に驚きながら頭を振った。
Sherlockは既にWilliam氏の部屋へ戻り、携帯電話でペンキの記号を写真に撮っていた。何枚か撮り終えると違う方向へ振り返ったが、心の眼で見る空間には記号が浮かんでいた。彼から見て右手には天井まで伸びる大きな窓があり、 近くに建っているあの有名な‘The Gherkin’(※小さいサイズのキュウリを意味する)ことスイスRe本社タワーも含まれる印象的な外の風景を一望することができた。Sherlockは顔をしかめながら目を逸らしたが、何か考えが浮かんだのか窓へ歩み寄るとブラインドを上げ、ちょっとしたバルコニーとなっている部分へと通じるドアを開けた。外へ出るとその壮観な景色を少し眺め、目がくらむほどの高さから地上を見下ろした。バルコニーへと再び視線を戻すと考え込みながら唇を噛み、部屋へと戻っていった。
しばらく経ち、Sherlockはトレーディング部門のオフィスで何やら激しく動き回っていた。デスクの後ろに屈み込んだかと思うとまたゆっくりと顔を出し、William氏の部屋へ通じるガラス扉を凝視する。そしてまた横に身を屈めて混乱するトレーダーたちの間を駆け抜けた。彼はその後も席に沿って横にすばやく移動しながら何度も机の後ろに屈んだり、飛び上がって顔を出したりしながら例の部屋の方角を観察し続けていた。そしてまたすばやく移動して柱の周りを回り、オフィスの別の箇所へ向かった。部屋への通路で立ち止まり、視線を部屋の方角へ固定したまま首を左右に小刻みに動かしながら何かを確認すると、またオフィスの中へ入っていき誰かの席の椅子の真後ろに立った。そこからは肖像画の上部が見え、人物の目の辺りに黄色いラインが描かれていることがよくわかった。前にいた位置に戻り、先ほどの場所が肖像画の状態を確認できる唯一の位置であることを確認した。そこが何の部署なのか確かめるために辺りを見回してから席がある部屋のドアへ向かい、外側にある二つの札を眺めた。ひとつはそこが香港担当の責任者のオフィスであることを示し、上にはその人物の名前が記されていた-Edward Van Coon。Sherlockはその札をスライドさせてドアから抜き取り、持ち去った。
その後SherlockはJohnを連れて入り口のエスカレーターへと向かっていた。
JW: 今月二回も世界中を飛び回ってたってやつ。秘書に訊いたりなんかしてない、鼻を明かそうとして言ったんだろ。
Sherlockはただ微笑むだけで何も答えなかった。
JW: どうしてわかったんだ?
SH: あいつの腕時計を見たか?
-Sherlockは首をかくSebastianの手首にある腕時計を見ている。
JW: 腕時計?
SH: 時刻は合っているが日付が違っていた。二日前を表示していた。日付変更線を二回横断したが時計を直さなかったんだ。
JW: ひと月の内に?なぜそんなことまでわかる?
SH: 新品のBreitling(※)。 (※ブライトリング…スイスの高級時計ブランド)
-腕時計にはBreitling Chronometre Crosswindというブランドおよびモデル名が刻まれていた。
SH: 今年の二月に発売されたばかりの物だ(※)。 (※この事件が起こったのは三月。)
JW: そうか。さて、もう少しここを嗅ぎまわっていくか?
SH: もう必要なものは全部手に入れたのでご心配なく。
JW: うん?
SH: あの落書きはトレーディング部門で働く誰かへ向けたメッセージだった。それを受け取った人物を捜せば…
Sherlockは語尾を段々小さくして、続きをJohnに言わせた。
JW: …その人物が発信者へと導いてくれる。
SH: 間違いなく。
JW: でもさ、あそこには300人はいるぞ。誰に向けてだったんだろう?
SH: 柱。
JW: え?
SH: 柱とパソコンのモニターがある。ごく限られた場所でしかあの落書きは見られない。それでかなり位置が絞られる。それからメッセージが昨夜11時34分に残されたということ。これも大きなヒントだ。
JW: どういう?
二人は話を続けながら回転ドアを通って外に出た。
SH: トレーダーはあらゆる時間に出勤してくる。香港の取引の場合は深夜に行われる。あのメッセージは深夜に出勤する人物へ向けられたものだった。
するとSherlockは先程ドアから外した札を取り出してJohnに見せた。
SH: Van Coonという名前なら電話帳にそれほど多く載ってない。
そしてそのとき必要なものを見つけると大きな声で呼びかけた。
SH: タクシー!