上の階のリビングでは、Sherlockがソファで仰向けに横たわっていた。窓側に向かって置いたクッションに頭をのせている。上着は脱いでいて左腕のシャツの袖がまくられていた。目は閉じたままで、右手で左腕の肘あたりの内側を押さえている。数秒後、目をパッと見開くと天井を見つめたが、荒々しくため息をつくとまた緊張を緩めた。Johnはリビングに入ると立ち止まり、Sherlockが寝そべりながら左手の拳を握ったり開いたりしているのを目にした。

JW: 何してるんだ?

SH: (静かに)ニコチン・パッチ。思考を助ける。

右手を離して見せると腕には三枚の丸いニコチン・パッチが貼られていて、彼は成分をより早く取り込もうと上から押さえつけていたのだった。

SH: 昨今のロンドンでは喫煙という習慣を維持していくのは困難なんだ。頭を使う仕事には悪い知らせだ。

彼は仕事(work)の'k'を強調して愚痴をこぼした。

JW: (部屋に入りながら)呼吸には良い知らせだろ。

SH: (軽蔑するように)ああ、呼吸なんて。そんなの退屈だ。

Johnは顔をしかめて、Sherlockの腕をさらによく見てみた。

JW: 三枚も貼ってるのか?

SH: (顎の下で祈るように手を合わせながら)パッチ三枚分の問題なんだ(※)。

そしてSherlockは目を閉じる。Johnは少し部屋を見渡して、またSherlockの様子を眺めた。

JW: それで?

Sherlockは何も応えない。

JW: 君が来いって言ったんだろ。何か大事な用なんじゃないのか。

Sherlockはやはり何も応えず、数秒後やっと目を見開いた。しかしJohnの方に顔を向けるのは面倒なようだった。

SH: ああ、そうだよ、もちろん。電話を借りてもいいかな?

JW: 電話?

SH: 僕のは使いたくないんだ。番号を常にわかるようにしてあるからさ。Webサイトで。

JW: Hudsonさんだって電話を持ってるだろ。

SH: ああ、下にいるよ。呼んだんだけど、聞こえないみたいで。

JW: (怒りを帯びてきて)僕はロンドンの反対側にいたんだ。

SH: (穏やかに)別に急がなくてもよかったのに。

Johnがにらみつけるのも気にかけずSherlockは天井を少しの間見つめてから再び目を閉じた。仕方なくJohnはポケットから電話を取り出して彼に差し出した。

JW: ほら。

目を閉じたままでSherlockは掌を上に向けて右手を伸ばした。それ以上動く気配はない。Johnは渋い顔をして前に歩み寄り、手の上に電話を置いてやった。そしてまた少し離れた位置に戻ってから問いかけた。

JW: で、これはあれか、事件(case)の?

SH: (そっと)ケース(case)。

JW: ケース?

SH: (目を開き)スーツケース、そう、明らかに。殺人犯はスーツケースを持ち去った。最初の大きなミスだ。

JW: そうか、スーツケースを持ち去った、で?

SH: (自分に語りかけるように小声で)駄目だ。他に方法はない。覚悟を決めないと。

そう言うとSherlockはJohnへ向かって横柄に電話を差し出した。まだJohnの方を見ようとしないまま、心持ち声の音量を上げて用件を告げた。

SH: 机の上に番号がある。そこにメールを送ってほしいんだ。

Johnは信じられず、怒りのあまり笑い出しそうになっていた。

JW: (キツい口調で)僕をここに呼んだのは…メールを送らせるためか。

SH: (怒らせていることに気づかない様子で)そう、メール。番号は机の上に。

今なら殺人を犯しても誰も自分を咎めないだろうと考えているかのように、Sherlockが電話を差し出しているのを怒りを込めて見つめていたJohnだったが、それでも脚を踏み鳴らして歩み寄り、電話をひったくるように取った。Sherlockはまた手を顎の下に戻したが、Johnが机ではなく窓へ近寄って外を見下ろしているのに気付くと、目を開けて少しだけ顔を向けた。

SH: どうかしたか?

JW: 君の友人に会った。

Sherlockは困惑して眉をひそめた。

SH: 友人?

JW: 敵だってさ。

それを聞いてSherlockは安心したようだった。

SH: (落ち着いて)へえ、どいつかな?

JW: 君の宿敵だってさ、彼によれば。(Sherlockの方を向いて)普通、宿敵なんているもんかね?

Sherlockは疑わしげに目を細めながらJohnの方へ顔を向けた。

SH: 金を出すから僕をスパイしてくれと言ってきたのか?

JW: うん。

SH: 受け取ったのか?

JW: いや。

SH: 残念。僕らの懐にも余裕ができたのに。次回は引き受けろよ。

Johnは思わず少し笑みを浮かべた。

JW: あれは何者だ?

SH: 君が今まで出会った中で最も危険な人物。でも僕が今やるべきことじゃない。(より乱暴に)机の上、番号。

Johnは再び怒りを込めた視線をSherlockに向けたが、彼はもう別の方を向いてしまっていた。そしてJohnは仕方なく机に歩み寄り、そこから荷札と一緒に置いてあったメモを手に取って書いてある名前を眺めた。

JW: Jennifer Wilson。これって…おい、あの死んだ女じゃなかったか?

SH: そうだ。それはどうでもいい。さあ番号を入力して。

わけがわからず頭を振って気を取り直し、Johnは電話に番号を入力し始めた。

SH: 今やってる?

JW: うん。

SH: もう終わった?

JW: ああ…どうぞ!

SH: これから言う通りに。“What happened at Lauriston Gardens? I must have blacked out. (ローリストン・ガーデンで何があったんでしょう?気を失ってたみたいです)”

Johnは文章を入力し始めたが、いったい何を言っているんだというような視線をSherlockに向けた。Sherlockは気にせず言葉を続ける。

SH: “Twenty-two Northumberland Street. Please come. (ノーサンバーランド・ストリートの22番地です。来てください)”

Johnは“What happened at / Lauriston Gdns? / I must have b”と入力したところで、顔をしかめてSherlockに再び顔を向けた。

JW: 君が気を失ったって?

SH: ええ?違う。違う!

するとSherlockは脚を振り上げ、その反動で素早く立ち上がり、最短距離-ソファの前のコーヒー・テーブルの「上」を歩いて通り越し、キッチンへ向かった。

SH: 入力して送る。早く。

キッチンへ向かうとSherlockはダイニングの椅子の上に置いてあった小さなピンク色のスーツケースを手に取ってリビングに運んできた。リビングの机から椅子をひとつ取って上手に回転させて向きを整ると暖炉の前にある二つの肘掛け椅子の間に置いた。その上にスーツケースを置くと自分は肘掛け椅子に座った。Johnはまだメールを入力している。

SH: もう送った?

JW: 住所は何だっけ?

SH: (イライラして)ノーサンバーランド・ストリートの22。早く!

ようやくメッセージを送信し終えたJohnがSherlockの方を見ると、彼はケースのジッパーを開け、蓋を広げて中を調べていた。服や下着などが様々なバリエーションのピンク色で揃えられている。洗面道具、Paul Bunch著の“Come To Bed Eyes”というタイトルのペーパーバック。Johnは彼が何を見ているのかに気付くと衝撃を受けて少しよろめいた。

JW: それ…それはあのピンク女のケースだ。Jennifer Wilsonのケースだろ。

SH: (ケースの中を眺めながら)ああ、そうだよ。

Johnが凝視しているのでSherlockは彼に向かって目を回した。

SH: (皮肉を込めて)ああ、念のため言っておくけど、僕が殺したんじゃない。

JW: 君がやったなんて言ってないよ。

SH: そうか?君に指示してメールを送らせたこととか、彼女のケースを持っているという事実だとか、完璧に筋の通った仮説じゃないか。

JW: いつもみんなは君が殺人犯だと疑うのか?

SH: (ニヤリとして)時々ね、そうなんだ。

Sherlockは椅子の肘掛け部分に両手をついて素早く身体を持ち上げ、座面の上にしゃがみ込むような姿勢を取り、顎の下で両手を握り合わせた。

JW: そうか…

Johnは脚を引きずって暖炉の前のもうひとつの肘掛け椅子に歩み寄ると深く腰を下ろした。

JW: どうやって手に入れたんだ?

SH: 探した。

JW: どこを?

SH: 犯人はローリストン・ガーデンまで彼女を車に載せたはずだ。そいつだけが期せずして彼女のケースを保有することができたんだ-車の中であればね。このケースを持っていて人目を引かないわけがない-特に男は、統計的にますますありえない-だから明らかに犯人は自分の手元にあることに気付いた瞬間に、何としてでもどこかへやってしまわねばと思ったはずだ。ミスに気づくまで五分以上はかからなかっただろう。僕は通りの裏をすべて調べた、ローリストン・ガーデンから車で五分の範囲内にあって…

Sherlockが屋上の端に立って通りを見下ろし、どこかにケースが隠されていないか探している-

SH: …厄介な物を人目に付かずに処分できそうな場所を。

Sherlockは地上に戻り、路地に設置してあった巨大な廃棄物回収容器の中を漁って、黒いゴミ袋の山に埋もれていたケースを発掘し、持ち手に付けられていた荷札を確認した-

SH: その容器を探し出すのに一時間もかからなかったね。

JW: ピンクか。うまくいったのはケースがピンク色だってわかっていたから?

SH: まあ、ピンクでなくちゃいけなかったからね、当然。

JW: (自分自身に)なんでそう思わなかったんだろ?

SH: 頭が悪いからだろ。

Johnは驚いてSherlockを見た。Sherlockは片方の手で彼をなだめるような仕草をした。

SH: ああ、ああ、ああ、そんな顔しないで、実際みんなそうなんだから。

そしてまた手を合わせると人差し指でケースを指した。

SH: ほら、見て。何が失くなってるかわかるか?

JW: ケースから?失くなってるのにどうやって?

SH: 電話だよ。携帯電話はどこだ?遺体には電話はなかった、ケースの中にも電話はない。持っていたことはわかってる-そして番号がそこにある、君がメールした。

JW: 家に忘れたのかもしれない。

Sherlockは両手を椅子の肘掛け部分に置いて身体を持ち上げると、脚を床に下ろしてきちんと座り直した。

SH: 彼女には愛人関係があって神経質になっていたんだぞ。家に電話を置いていったりしない。

そして荷札をケースの上に置くと、Johnに期待を込めた視線を投げた。

JW: ええと…

Johnは椅子の肘掛けに置いていた電話を見下ろした。

JW: どうして僕はメールを送ったのかな?

SH: ああ、問題は、今、彼女の電話はどこにあるかということ。

JW: 失くしたのかもしれない。

SH: うん、あるいは…?

JW: (ゆっくりと)殺人犯が…君は犯人が電話を持ってると?

SH: ケースを置いたときに失くしたのかもしれない。何らかの理由で犯人が奪ったのかもしれない。どちらにしろ、犯人が電話を持っている可能性が高い。

JW: 待てよ、何をやってんだ僕らは?僕は殺人犯にメールしたのか?! いったい何のために?

すると合図を受けたかのようにJohnの電話が鳴り出した。手に取って画面を見た。

(withheld)

calling

[<非通知> / 着信中]

Johnはどうしたら良いかわからずSherlockの方を見た。

SH: 最後の犯行から数時間、そして今、犯人は彼女からとしか思えないメールを受け取る。もしただ単に電話を手に入れた人物ならこういうメールは無視するだろう、でも犯人なら…

そこで彼はわざとらしく言葉を止め、電話が鳴り止むのを待ってから続きを言った。

SH: パニックになる。

そしてSherlockはケースの蓋を戻して立ち上がりジャケットを取りに行った。Johnはまだ電話を見つめていたが、Sherlockがジャケットを着てドアに向かったところでようやく顔を上げた。

JW: 警察には話したのか?

SH: 四人も死んでいるんだ。警察と話している暇はない。

JW: じゃあ何で僕には話す?

Sherlockはフックに掛けてあるコートを取るためドアに歩み寄った。そしてJohnの方へ視線を向けながらマントルピースの上から失くなったものについて触れた。

SH: Hudsonさんにドクロを取られたんだ。

JW: じゃあそもそも僕はドクロの穴埋め役ってことか?

SH: (コートを着ながら)落ち着けって、君はよくやってる。

Sherlockは出掛ける用意をしているが、Johnは動こうとはしなかった。

SH: あれ?

JW: どうした?

SH: あの、そこでただ座ってテレビを観ててもいいんだけどさ。

JW: え、一緒に来てほしいって?(※)

SH: 出掛けるときは連れがいるといいんだ、話をしていた方が頭が働くし。ドクロは注意を惹きつけるから…

Johnは思わず少し微笑んだ。

SH: だめかな?

JW: ああ、Donovan巡査部長が。

SH: (怒って顔を背け)あの女が何だ?

JW: 言ってたんだ…君は夢中になっていて、楽しんでいるんだって。

SH: (気に留めない様子で)それから僕は「危険だ」と言った、そして君はここにいる。

そう言うと彼はさっさとドアから出ていってしまった。Johnは少しの間座って考えこんでいたが、やがて半ば怒りながらも杖に寄りかかって立ち上がり、ドアへ向かった。

JW: くそ!

 

※“パッチ三枚分の問題だ(It’s a three-patch problem)”

…原作「赤毛組合」から。依頼人から相談を持ちかけられたHolmesは「タバコだ。これは三服分は十分にある問題だ、50分は話し掛けないようにお願いしたい」と言ってパイプでタバコを吸いながら椅子の上で膝を抱え、思考に集中する。

 

※「一緒に来てほしいって?」

…原作「緋色の研究」での二人の会話。-「君も帽子を被って」彼は言った。「僕に来てほしいのか?」「そうだ。他にすることがなければな」

 

 

ピンク色の研究 6