ピンク色の研究 5
少し経って、Johnは走り去る車の後部座席に身を任せていた。隣には魅力的な若い女性が座っていたが、BlackBerryを手に何か入力していて、Johnをほとんど無視していた。
JW: どうも。
女: (ほんの少しJohnに微笑んだが、またすぐに電話に視線を戻し)どうも。
JW: お名前は、何て?
女: ええと…Anthea。
JW: それは本当の名前?
女: (微笑んで)いいえ。
Johnはうなずきながら少し窓の外を眺めたが、また女に話しかけてみることにした。
JW: 僕はJohn。
Not-Anthea: ええ。知ってる。
JW: どこへ向かってるのか教えてくれたりする?
Not-Anthea: それは無理ね…
彼女はまたJohnに少し微笑みかけたが、やはり電話から意識を離せないようだった。
Not-Anthea: …John。
JW: わかったよ。
しばらくして車はほとんど何もない倉庫へと入っていった。その真ん中あたりに何食わぬ顔で傘によりかかりながらスーツ姿の男が立っていて、Johnが車から降りてくるのを眺めていた。男の名前は仮に「M」としておく。そこには背もたれが真っ直ぐで肘掛がない椅子が置いてあり、杖に重くよりかかり脚を引きずりながら近づいてくるJohnに男は傘でそれを指した。
M: 掛け給え、John。
Johnは前に進みながら応えた、声は落ち着いている。
JW: あのさ、僕だって電話を持ってる。
そして倉庫の中を見渡した。
JW: つまり、手際よく確実に、ってなら…電話してくればいいだろう。僕の電話にさ。
椅子のそばを通り過ぎ、男から少し離れたところで立ち止まった。
M: Sherlock Holmesに悟られないようにするためには慎重にならなくてはならない。それゆえこの場所なのだ。
男の声は愛想の良い感じだったが、やがて厳格さを帯びた。
M: 脚が辛いだろう、掛けなさい。
JW: 座りたくない。
男は興味深そうにJohnを眺めた。
M: 君はちっとも恐れていないね。
JW: あんたなんかちっとも怖くない。
Mはおもしろそうに笑った。
M: ああ、そうか。勇敢な兵士だ。勇敢であるということは愚かなこととほぼ同じだと君は思わんかね?
そして男は再び厳しい視線をJohnに向けた。
M: Sherlock Holmesとはどういう関係なのかな?
JW: 何でもない。あいつのことはほとんど知らない。会ったばかり…
そこでJohnは少し驚いたようだった-あれからほんのわずかな時間しか経っていないということに。
JW: …昨日。
M: ふむ、同居することになったのはつい昨日のことで、今では一緒に事件を捜査している、と。週末にはおめでたい報告も期待できるのかな?
JW: あんた何者だ?
M: 関係者だ。
JW: Sherlockの関係者?どんな?見たところ友人ではなさそうだな。
M: 彼と会ったんだろう。いったい何人の友人とやらがいると思う?私はSherlockが抱えうる友人にもっとも近い存在なんだよ。
JW: 何だ、それは?
M: 敵だ。
JW: 敵?
M: 彼の中では、な。もし尋ねられたら宿敵とでも言うだろう。大げさなのが好きだからな、あいつは。
Johnはうんざりしてきて、じろじろと倉庫の中を見渡した。
JW: (あてつけがましく)ああ、さすがだな、何もかもお見通しなんだ。
男はJohnに顔をしかめた。するとそこでJohnの電話がメールを受信して音を鳴らした。すぐに上着のポケットを探って電話を取り出し、男を無視してメッセージを読みだした。
Baker Street.
Come at once
if convenient.
SH
[ベイカーストリート。都合が良ければすぐに来てくれ](※)
M: 君を困らせたくはないんだが。
JW: (気さくに)そう願いたいもんだね。
そして電話にちょっと目をやってからポケットにしまった。
M: Sherlock Holmesとの付き合いは続けていくのかね?
JW: 良くないことだとしても…あんたに言われる筋合いはない。
M: (不気味に)あるとしたら。
JW: そんなことない。
すると男は上着の内ポケットから手帳を取り出し、中に書いてあることを眺めながら交渉を始めた。
M: もしあの部屋に越すなら…ベイカーストリートの221Bにだね、定期的に君が楽に暮らしていけるだけの金額を私が喜んでお支払いするよ。
そして手帳をまたポケットにしまった。
JW: なんでだ?
M: 君は余裕がないんだろう。
JW: 何に対しての報酬だ?
M: 情報だ。不謹慎だとか、気詰まりだとか…感じることはない。彼が関わっていることを教えてほしい。
JW: どうして?
M: 彼を心配している。常に。
JW: (心を込めず)あんたはいい人なんだな。
M: だが様々な理由により自ら表立って動くことができないのだ。我々には君等の言う、ちょっと複雑な…事情があってね。
そこへJohnの電話がまたメールを受信して音を鳴らした。Johnはすぐに電話を取り出してメッセージを眺めた。
If inconvenient,
come anyway.
SH
[都合が悪くても、とにかく来てくれ](※)
そしてJohnは男の申し出に返答した。
JW: 嫌だね。
M: まだ金額を伝えてないんだが。
JW: (電話を戻しながら)その必要はない。
M: (ちょっと笑って)忠義な男だな、迷いがない。
JW: 別にそういうんじゃない。ただ興味がないだけだ。
男はJohnをじっと眺めるとまた手帳を取り出して、そこに書いてある言葉を少しわざとらしく確認しながら読み上げた。
M: 「信用に難あり」と書いてあるな。
それを聞くとJohnは男と出会ってから初めて、わずかに動揺した。
JW: 何だ、それは?
M: (手帳を眺めながら)君は他の人間よりもSherlock Holmesを信用する気になったのかね?
JW: 僕があいつを信用する?
M: 君は簡単に友達になるような人間ではなさそうだな。
JW: あいつとはそうなったと?
すると男は手帳から顔を上げて、Johnの目を見た。
M: そう物語っている。
Johnはしばらく男を見つめていたが、やがて背を向けて歩き始めた。
M: 彼と距離を置くよう君に忠告してくる人間も既にいるだろうが、君はそれに従うことはないだろう、君の左手から見て取れる。
Johnは突然立ち止まった。怒りで肩を強張らせ、頭をわずかに震わせていた。そして腹を立てながらまた男の方へ向き直った。
JW: (怒って歯を食いしばり)手が何だ?
M: (動揺せず)見せ給え。
男はわずかに顎でJohnの左手を指した。傘の先を地面に差して、人を服従させるのに慣れた様子で命令した。Johnはそれには屈しないという態度で、脚が沼の泥に沈んでいくのを防ぐかのように慎重に位置を直した。そしてそこに立ったまま肘から上へ左手を掲げてみた。「見たいんだったらそっちから来い」とでも言いたげに。男はこの反抗的な態度にも落ち着きを失わないようで、傘を腕にぶら下げてJohnの方へ歩み寄ってきた。するとJohnはすぐに手を引いてしまった。
JW: (緊張して)だめだ。
男は首をかしげて、Johnに向かって眉を上げた。「信用に難あり、ということか?」とでも言いたげに。Johnは仕方なく、大いに不服そうに掌を下にして左手を差し出した。男は両手を添えてJohnの左手をしげしげと眺めた。
M: 大したもんだ。
JW: (手を振り払い)何が?
M: (向きを変えて少し歩きながら)この街をうろついている連中はたいてい通りや店、車くらいしか目にしていない。Sherlock Holmesと行動を共にすれば、戦場を目の当たりにすることになる。(再びJohnの方へ向き直り)それはもう体験したんじゃないかね?
JW: 僕の手が何だっていうんだ。
M: 君の左手は断続的に震えるそうだな。
Johnは思わずうなずいてしまった。
M: セラピストは外傷後ストレス障害だと考えている。軍で任務に就いていたときの記憶がトラウマとなっていると。
Johnは男が自分の情報を正確に並べ立てるので怖気付いていた。そして男のぴくぴく動く頬の肉に目が釘付けになっていた。
JW: (怒って苦しそうに)あんたいったい何者だ?どうしてそれを知ってる?
M: 彼女はクビだな。間違った認識をしている。君は今ストレスを感じているのに、手はちっとも震えていないじゃないか。
Johnは手に視線を投げてから、再び前方を見つめた。その顔は怒りを抑えようとしているような表情だった。
M: 君は戦争を恐れているのではない、Doctor Watson…渇望しているのだ。
男がJohnに顔を寄せたので、Johnは不本意ながらも男の顔に目線を上げた。
M: おかえり。
男はそうささやくとJohnから離れて立ち去っていった。またJohnの電話がメールを受信した。
M: (ぶらぶらと傘を振り回しながら)決心はついたかな、Doctor Watson。
Johnは少しの間その場に立ち尽くしていたが、やがて向きを変え、男を一瞥した。背後では車のドアが開き、Not-Antheaが降りてJohnへ歩み寄ってきたが、まだ両手に持つBlackBerryに意識を向けていた。
Not-Anthea: 家まで送りましょう。
Johnは彼女の方へ向きかけたが、その前に電話を取り出してメッセージを確認した。
Could be dangerous.
SH
[危険を伴うだろう]
電話をポケットに戻すとJohnは左手を広げてみて、震えていないのを確認すると皮肉っぽく微笑んだ。
Not-Anthea: 住所は?
JW: (歩み寄りながら)ええと、ベイカーストリート。ベイカーストリートの221B。でもその前にちょっと寄るところがあるんだ。
その後、Johnは彼のワンルームのドアを開けて中に入り、照明を点けた。ドアを閉めて机に歩み寄ると引き出しを開け、しまっておいたピストルを取り出した。引き鉄を確認し、ジーンズの背中にそれを押し込んだ。
そしてまたしばらくして、車はベイカーストリートの221Bへ着いた。Not-Antheaはまだ電話に何か入力している。
JW: あのさ、君の上司に-僕がここへ来たってことを言わないでもらえるかな?
Not-Anthea: (無頓着に)ええ。
JW: でももう言っちゃったんじゃないか?
Not-Anthea: そうね。
Johnはあきらめてうなずき、車を降りようとしたが、もう一度彼女に質問をしてみた。
JW: なあ、あの…休みはちゃんともらってるの?
彼女はくすくすと笑った。
Not-Anthea: (皮肉を込めて)ええ、もちろん。たくさんね。
Johnはちょっと期待をしてみたが、彼女は引き続き電話に意識を向けていた。そして電話から顔を上げると221Bのドアに目をやってからようやくJohnに顔を向けた。
Not-Anthea: じゃあね。
JW: うん。
Johnは車から降りてドアを閉めた。車が去っていくのを眺め、やがて通りを横切って221Bの玄関へ向かい、ドアをノックした。
※SherlockがJohnに送ったメッセージ
…“Come at once if convenient. / If inconvenient, come anyway.” は原作「這う男」でHolmesがWatsonに向けて送った電報から。 “Come at once if convenient – if inconvenient come all the same.” (都合がよければすぐ来てくれ-もし都合が悪くても来てくれ)