Bartsの研究室。Sherlockは部屋の奥でピペットを用いて液体をペトリ皿に数滴垂らしたところだった。そこへMikeがドアをノックし、Johnを連れて中へ入ってきた。Sherlockは一瞬だけ視線を投げかけて、また作業に戻る。Johnは脚を引きずりながら部屋へ入り、中の設備を見渡した。
JW: ああ、僕がいた頃とはちょっと変わったな。
MS: (くすくす笑いながら)勝手が違うか!
するとSherlockが座りながら彼らに話しかけた。
SH: Mike、電話を借りてもいいかな?僕のは圏外なんだ。
MS: 固定電話じゃだめなのか?
SH: メール(※)を送りたいんだ。
MS: 悪いな。コートのポケットに入れたままなんだ。
見かねてJohnはポケットから自分の電話を取り出し、Sherlockに差し出した。
JW: あの、僕の。良かったら。
SH: ああ、ありがとう。
Mikeをチラッと見て、Sherlockは立ち上がりJohnへ歩み寄った。Mikeは紹介をした。
MS: 旧い友人のJohn Watsonだ。
SherlockはJohnから電話を受け取り、少し離れてからキーボードを開き、メールを入力しながら出し抜けに言った。
SH: アフガニスタンかイラク?
Johnは何のことかわからず顔をしかめた。Mikeは心得顔で微笑んでいる。Johnはメールを入力しているSherlockを見やった。
JW: え?
SH: どっちだったんだ-アフガニスタンかイラクだろう?
SherlockはちらっとJohnへ視線を投げてから電話へ意識を戻した。Johnは尻込みして混乱しながらMikeの方を見る。Mikeはただひとり満足気に微笑むのみだった。
JW: アフガニスタンだけど。でもどうしてそれを…?
そこへMollyがコーヒーを入れたマグを持って部屋に入ってきたので、Sherlockは顔を上げた。
SH: ああ、Molly。コーヒーか。ありがとう。
電話をJohnへ返してMollyからコーヒーを受け取る。そのときに彼女の顔をよく見ると、口紅は拭き取られていた。
SH: 口紅はどうした?
MoH: (気まずそうに微笑んで)わたしには似合わないみたいだから。
SH: そうか?大きな進歩だったのに。君は口が小さすぎるからな。
MoH: …そうね。
Sherlockはコーヒーを口にしながら作業していた場所へ戻っていき、Mollyはまたがっかりしながらドアへ向かっていった。
SH: ヴァイオリンについてはどう思う?
JohnはMollyの方を見たが、彼女は既に部屋を出ていっていた。そしてMikeを見たが、やはり微笑むばかりで何も言おうとしない。そこでようやく自分に話しかけているのだとわかった。
JW: ごめん、何かな?
SH: (ラップトップで入力しながら)僕は考え事をするときヴァイオリンを弾くんだ。時々何日もまるで口をきかないことだってある。(Johnへ顔を向けて)それは気に障るかな?同居する可能性があるならお互いの悪いところを知っておくべきだろう。
そう言ってSherlockはちょっと不気味に笑顔を作ってみせた。Johnはぽかんとしてそれを受け止めた後でMikeへ疑問をぶつけた。
JW: おい、君…僕のこと話してあったのか?
MS: 言葉にはしてない。
JW: (Sherlockの方を向いて)じゃあ誰が同居の話をしたんだ?
SH: (コートを手に取って着ながら)僕が。今朝Mikeに話した、同居人を見つけるのは大変だろうな、って。そしてランチを終えて彼はここへやってきた、明らかに任務を終えてアフガニスタンから帰ってきたばかりと見える旧い友人と共に。そこから推測するのは難しくないだろ。
JW: どうしてアフガニスタンだってわかったんだ?
Sherlockはそれには答えず首にマフラーを巻くと、携帯電話を取り出して状態を確認した。
SH: ロンドンの中心でちょっといい場所に目をつけてあるんだ。一緒に借りるのに良さそうなところがある。
ひとりで勝手に話を進めながらJohnへ歩み寄った。
SH: 明日の夜七時にそこで会おう。すまないけど-急がないと。鞭を安置室に置いてきたみたいなんで。
そう言って電話をコートのポケットにしまい、Johnから離れてドアに向かっていく。Johnはわけがわからず彼に問いかけた。
JW: もうそんなことに?
Sherlockはドアから戻ってJohnの方へまた歩み寄ってきた。
SH: そんなことって?
JW: 僕らは会ったばかりなのに、もう部屋を見に行くって?
SH: 問題でも?
Johnは信じられず笑いそうになりながらMikeへ助けを求めようと顔を向けたが、友人はただニコニコしながらSherlockを見ていた。Johnは仕方なくまた奇妙な青年に問いかける。
JW: お互いのことを全然知らないじゃないか、どこで会うつもりなのかも僕にはわからないし、君の名前だって聞いてない。
Sherlockは話し出す前に少しの間Johnをじっと見つめた。
SH: 君は軍医でアフガニスタンから免役されて帰ってきたんだろう。心配してくれる兄弟がいるが助けを求めるつもりはない、快く思ってないからだ-きっとアルコール中毒だからだろう、それよりむしろ彼が最近奥さんと別れたからかな。それからセラピストは君の脚が悪いのは心身症が原因だと考えている-僕はかなり正確に知っている、恐れながら。
Johnは自分の脚と杖を見下ろして、きまり悪そうに足を動かした。
SH: (満足気に)それだけ知ってれば話を進めるのに十分だと思わないか?
そしてまた出口へと向かっていき部屋を出ようとしたが、途中でドアへよりかかるようにして少しだけ顔を覗かせ、Johnへ告げた。
SH: 名前はSherlock Holmes、住所はベイカーストリートの221B。
それからJohnへ向けてウインクをして見せると、Mikeの方へ顔を向けた。
SH: ごきげんよう。
Mikeは部屋を出ていくSherlockへ別れの挨拶代わりに指を掲げた。ドアが音を立てて閉じられると、Johnはまだ信じられない様子でMikeの方へ振り返った。Mikeは微笑みながらJohnへうなずいて見せた。
MS: そう。あいつはいつもああなんだ。
※メール…
欧米では、携帯電話でメッセージをやり取りするときは電話番号のみで送受信できるtext、日本で言うSMSの方が主流となっている。あまり使わないe-mailの機能は搭載していないという携帯電話も多く、e-mailはパソコンのメールソフトもしくは比較的高機能で高価な機種の携帯電話およびスマートフォンで使用される。この日本語訳で単に「メール」と表現されているのはtextのことを指す。
その後。Johnは自分の部屋へ帰ってきていた。ベッドに腰を掛けると携帯電話を取り出してメニューを表示させ、送信済メッセージを見てみた。
If brother has green ladder
arrest brother.
SH
[もし弟が緑の梯子を持っていたら逮捕しろ](※)
謎めいた内容に困惑してしばらくJohnはそれを眺めていたが、やがてテーブルに置いてあるラップトップへ視線を向けた。そして立ち上がってテーブルへ歩み寄った。しばらくして彼は検索サイト(“Quest”)の検索単語入力欄に“Sherlock Holmes”と入力した。
※緑の梯子
…Case Files: The Green Ladderの詳細はSherlockのサイト“The Science of Deduction”に掲載されている。
どこか不明なある場所で、ピンクのコートを来てピンクのハイヒールを履いた女性が、何も家具のない部屋の床へゆっくりと震える手を伸ばした。そこには三粒の錠剤が入ったガラス瓶が置かれていた。指が瓶へ近づき、ゆっくりと床から瓶を持ち上げる。彼女の手はまだ震えていた。
ベイカーストリート。Johnが脚を引きずりながら道を歩き、221Bのドアへ着いたところでタクシーが道路のへりに停まった。JohnがドアをノックしているとSherlockがタクシーから降りてきた。
SH: やあ。
Johnへ呼びかけながらタクシーの運転手へ運賃を手渡した。
SH: どうも。
Johnは歩み寄るSherlockの方へ向かった。
JW: ああ、Holmesさん。
SH: Sherlockでいいよ。
そして二人は握手を交わした。
JW: うーん、ここは中心地だ。高くつくんじゃないか。
SH: ああ、Hudsonさん-家主が、特別待遇をしてくれる。僕にちょっと恩があってね。数年前に旦那がフロリダで死刑を宣告されて。それに力を貸したんだ。
JW: ええと、旦那さんが死刑にされるのを君が阻止したってこと?
SH: ああ、違うよ。確定させたんだ。
SherlockがJohnへ微笑むとドアが開いてHudson夫人(以下セリフ: MrsH)が現れ、腕を開いて彼を迎え入れた。
MrsH: Sherlock、こんばんは。
Sherlockは彼女の抱擁に応じてから、Johnを紹介した。
SH: Hudsonさん、Doctor John Watsonだ。
MrsH: どうも。
JW: ええ、どうも。
MrsH: (Johnを招き入れ)さあ、どうぞ。
JW: ありがとうございます。
SH: お邪魔するよ。
MrsH: ええ。
男たちが中へ入るとHudson夫人はドアを閉めた。Sherlockは先に階段を駆け上がり、よたよたと階段を登るJohnを待った。ようやくJohnが登り切ると、Sherlockはドアを開けて居間の中へ入った。Johnも後に続いて中へ入り、部屋を見渡して置かれているものやあたりに散らばっている箱を眺めた。
JW: ああ。いいんじゃないか。とてもいい感じだね。
SH: そう。そうなんだよ。僕もそう思ったんだ。
Sherlockはうれしそうに部屋を見渡した。
SH: だから迷わず越してきちゃったんだ。
JW: (同時に)すぐにこのガラクタを片付けないとな…あ。
JohnはSherlockが言ったことに気付いてきまり悪そうに口ごもった。
JW: じゃこれはみんな…
SH: まあ、もちろんそう、うん、ちょっとは片付けるつもりだ。
そう言ってSherlockは部屋を進み、半ば気乗りしない様子でファイルをいくつか箱に押し込み、明らかに未開封の封筒を暖炉へ持って行き、マントルピースの上に置くとナイフでそれを突き刺した。(※)Johnはそこに置かれている他のものに注目して、杖で指し示した。
JW: ドクロがある。
SH: 友達なんだ。僕が「友達」というのは…
そこへHudson夫人が部屋へ入ってきて、お茶のカップと皿を取り出し始めるとSherlockはコートを脱いでマフラーを外した。
MrsH: どうするおつもりなの、Watsonさん?上の階にももうひとつ寝室があるんだけど、もし二つ必要だったら。
JW: もちろん二つ要りますよ。
MrsH: ああ、心配しないで、このあたりには色んな方がいるから。(内緒話をするように)隣のTurnerさんていう女性は同性婚なの。(※)
JohnはSherlockの方を見て二人はそういった関係ではないと否定するのを期待したが、Sherlockはほのめかされていることに気付いていないのか、もしくは興味がないのか、何も言わなかった。Hudson夫人はキッチンへ向かいながらSherlockへ顔をしかめた。
MrsH: ああ、Sherlock。散らかしたわね。
そして夫人がキッチンを片づけ始めると、Johnは二つあった肘掛け椅子のひとつに歩み寄り、置いてあったクッションを整えてからそこに座って深く寄りかかった。それからまだ片付けを試みているSherlockへ話しかけた。
JW: インターネットで君のことを検索してみたんだ、昨日の夜。
SH: (Johnの方へ振り返り)何かおもしろいことでも?
JW: 君のサイトを見つけた。The Science of Deduction。
SH: (誇らしげに微笑んで)どうだった?
Sherlockは期待してJohnを見たが、Johnは「冗談じゃない」とでも言いたげな視線を投げかけたので、がっかりした。
JW: 君はソフトウェア・デザイナーをネクタイで見分けたり、左の親指で飛行機のパイロットだと識別できるらしいな。(※)
SH: そうだ、それに君の顔と脚から軍人である経歴を読み取れるし、携帯電話から兄弟の飲酒癖を知ることができる。
JW: どうやって?
Sherlockは微笑むだけで答えなかった。そこへHudson夫人が新聞を見ながらキッチンから出てきた。
MrsH: この自殺はいったい何なのかしら、Sherlock?あなたの得意分野だと思うんだけど。この三件は絶対同じよね。
外から車がやってきた音が聞こえ、Sherlockはリビングの窓からそれを見下ろした。
SH: 四つだ。
車から誰かが降りてくるのを眺めている。その車はパトカーでライトを点滅させていた。
SH: 四件目が起こった。そして今回は他と何か違いがある。
MrsH: 四件目?
Lestrade警部が階段を駆け上がり、部屋へ入ってきたのでSherlockは振り返った。
SH: どこで?
GL: ブリクストン、ローリストン・ガーデンだ。(※ロンドンの南部、ランベス・ロンドン特別区内にある地区)
SH: 何か新たなことでも?変わったことがなければわざわざ連れ出しに来ないだろう。
GL: 今まで遺言がなかったのは知ってるよな?
SH: ああ。
GL: 今回はあったんだ。来るか?
SH: 科学捜査の担当は?
GL: Andersonだ。
SH: (顔をしかめて)Andersonは僕と捜査しないだろ。
GL: まあ、アシスタントにはならないだろうな。
SH: アシスタントが要るんだよ。
GL: 来てくれるのか?
SH: パトカーでは行かない。後から行く。
GL: 助かるよ。
LestradeはJohnとHudson夫人を少し見回してから階段を駆け下りていった。Sherlockは警部が玄関へ行くまで待ち-そして抑えていた感情を爆発させた。飛び上がりながら大喜びで拳を握りしめ、うれしそうに部屋の中をくるくる回り出した。
SH: すごい!よし!ああ、四つの連続自殺、それに遺言!ああ、クリスマスみたいだ!
そしてマフラーとコートを身につけながらキッチンへ向かった。
SH: Hudsonさん、今夜は遅くなる。食べ物があるといいな。
MrsH: あたしは家主で、家政婦じゃありません。
SH: 冷たいものでいいよ。John、お茶でも飲んでくつろいでってくれ。待ってなくていい。
小さな革のポーチをテーブルから手にとるとSherlockはキットンのドアから出ていってしまい、二人の視界から姿を消した。それを見てHudson夫人はJohnにあきれたように言った。
MrsH: 見てちょうだい、あんなにあわてて。あたしの夫もまさに同じだったわ。
Hudson夫人がまた二人を夫婦のように扱うのでJohnは顔をしかめた。
MrsH: でもあなたは『座ってる』タイプみたいね、見た感じ。
Johnは気詰まりな様子だった。Hudson夫人は気にせずキッチンへ戻りながら話しかけた。
MrsH: お茶でも淹れましょう。脚を休めてちょうだいね。
それを聞くやいなやJohnは荒々しく叫んだ。
JW: ああ、もうこの脚は!!
我に返ったJohnは思わずしてしまったことを詫びようと驚いて振り返ったHudson夫人へ顔を向けた。
JW: すみません、本当にごめんなさい。こいつに関して時々こうなることが…
そう言いながらJohnは杖で脚を叩いた。
MrsH: わかるわ、あなた。あたしも腰が。
そしてHudson夫人はキッチンへ戻っていった。Johnは気を取り直して話しかけた。
JW: お茶はいいですよね、ありがとう。
MrsH: 今回だけよ、あなた。あたしは家政婦じゃないんだから。
JW: ビスケットなんかもいいですね、もしあれば。
MrsH: 家政婦じゃないんだってば!
Johnはそれにはかまわず、さっきHudson夫人が置いた新聞を手に取った。Beth Davenport運輸副大臣の自殺と思われる内容の記事がある。Bethの大きな写真の隣にある別の写真にさっきやってきた男性が写っていて、JohnはようやくそれがLestrade警部だったとわかった。記事を読み終える前にSherlockの声が聞こえ、Johnが顔を上げると彼はリビングのドアに立っていた。
SH: 君は医者だよな。もっと言えば軍医だ。
JW: そうだ。
Johnは立ち上がり、再び部屋へ入ってきたSherlockに歩み寄った。
SH: 優秀な?
JW: 実に優秀な。
SH: 多くのけが人を目にした、そしてひどい死に様も。
JW: まあ、そうだな。
SH: もううんざりだとも思ってる。
JW: (声を低めて)そうさ、もちろん。僕の人生にはもう十分だ。多すぎるくらいだ。
SH: もっと見たいと思うかい?
JW: (熱烈な眼差しでSherlockを見上げ)ああ、いいね。行くよ。
どういうわけかJohnは即答していた。Sherlockは踵を返し、Johnを連れて部屋を出ると階段を下りていった。Johnは途中で部屋の中へ呼びかける。
JW: すみません、Hudsonさん、お茶はいいです。出かけるんで。
MrsH: (階段のふもとへ下りていき)二人とも?
Sherlockはもう玄関へたどり着こうとしていたが、振り返ってHudson夫人へ歩み寄った。
SH: 疑わしい自殺?それが四つも?家で座ってなんかいられないよ、やっとおもしろいことが始まったっていうのに!
そしてHudson夫人の肩を掴んで騒々しく頬へキスをした。
MrsH: あらあなたってば、そんなに楽しそうに。行儀が悪いわよ。
それでもHudson夫人は微笑まずにはいられなかった。そしてSherlockは振り返ってまた玄関へ向かった。
SH: 行儀なんてかまってられないよ。ゲームが始まるんだ、Hudsonさん!
そして彼は通りへ出るとタクシーを止めようと手を挙げた。
SH: タクシー!
そこへタクシーが停まり、二人が乗り込むと車はブリクストンへ向かって再び走りだした。
※ナイフで突き刺した手紙…
原作「マスグレーヴ家の儀式」に「木のマントルピースのちょうど真中に返事をしていない手紙がジャックナイフで突き刺されていた」とある。
※Turnerさん…
原作「ボヘミアの醜聞」に221Bの家主としてHudson夫人ではなくTurner夫人という女性が登場する。彼女が登場するのはこの話のみで、なぜ家主が変わっているのかは不明。書き誤りである可能性が高いとされている。
※ソフトウェア・デザイナーをネクタイで見分けたり、左の親指で飛行機のパイロットだと識別できる…
原作「ぶな屋敷」でのHolmesの発言。「おいおい、一般人が-歯で織工と言い当てられず、左手の親指で植字工とわからない、素晴らしく不注意な一般人が-繊細な分析と推論にどんな興味を持つというんだ」