しばらく経ってJohnは脚を引きずって疲れながら自分の部屋に帰ってきた。照明を点けて溜め息をつき、ベッドに歩み寄って腰を下ろす。そばに杖を置き、目を閉じて弱々しく溜め息をこぼすと、靴を脱ぐために足へ手を伸ばした。すると携帯電話がメッセージの受信を知らせた。顔をしかめて足を床に下ろし、ジャケットのポケットから電話を取り出してメッセージを確認する。
Text from +44 7544680989
BAKER STREET. COME AT ONCE,
IF CONVENIENT.
SH.
[+44 7544680989からのメッセージ / ベイカーストリート。都合が良ければすぐに来てくれ]
Johnは考え込みながらメッセージを見たが、ポケットに電話をしまって靴を脱ぐために再び屈み込んだ。すると直ちに電話がメッセージの受信を知らせた。しばし遠くをにらみつけた後で、足を下ろしてポケットから電話を取り出す。新しく届いたメッセージ。
Text from +44 7544680989
IF INCONVENIENT COME ANYWAY.
[+44 7544680989からのメッセージ / 都合が悪くてもとにかく来てくれ]
顔を上げてドアの方を眺め、呼び出しに応じるかを考えていた様子のJohnは、数秒後にベッドの上に電話を置くと杖を取って立ち上がり、窓へ歩み寄った。ブラインドから外を覗く。その後ろで電話が光りだしてメッセージの受信を知らせる。Johnは窓に顔を向けていたが、それでも少し振り返らずにはいられなかった。数秒間、誘惑に打ち勝とうとしたが、結局そのままでいられず、苛立たしげに足を踏み鳴らしながら電話を取りに行った。最新のメッセージ。
Text from +44 7544680989
COULD BE DANGEROUS.
[+44 7544680989からのメッセージ / 危険を伴うだろう]
しばしメッセージを眺めてから顔を上げたJohnの眼差しは鋭くなっていた。
間もなくJohnはタクシーの後部座席に座っていたが、落ち着いて座席に身を任せていられず、もっと車のスピードが上がらないものかと苛立っている様子で、前後に身体を動かしていた。心配そうに腕時計を見る。タクシーの運転手はルームミラーでそんな彼の様子を伺っていた。
運転手: 何かに遅れてるんですか?
JW: (前に屈み込んで不安げに窓の外を見る)いや、別に。どうして?
運転手: すいません。何だかちょっと…「興奮」してるみたいだったんで。
JW: (すばやく)「興奮」?どういうこと、「興奮」してるって?
運転手はビクビクしながらルームミラーを見たが何も答えなかった。走り続ける車の窓の外をJohnは落ち着かない様子で見つめていた。
ベイカーストリート221B。上の階のリビングではSherlockが足を窓の方に向けてソファに寝転がっていた。ソファの背もたれにはラップトップが開かれて置いてあり、Johnが新聞で見ていた記事とLestrade警部の写真が表示されている。ジャケットを脱いでいるSherlockはシャツの裾をまくり上げ、右手で左肘の下の内側を強く押さえていた。しばらくしてソファの肘掛け部分に頭を落とすと音を立てて溜め息をこぼし、リラックスした様子を見せた。するとJohnが階段を上がって部屋に入り、ぼんやりと天井を見上げるSherlockを見ながら立ち止まった。
JW: 何してるんだ?
Sherlockはわずかに目だけを彼に向ける。
SH: ニコチン・パッチ。思考を助ける。昨今のロンドンでは喫煙という習慣を維持していくのは困難なんだ。頭を使う仕事には悪い知らせだ。
JW: へえ、呼吸には良い知らせだろ。
SH: (軽蔑的に)ああ、呼吸なんて。
左腕を離して下にだらりと落とす。肘と手首の間には三枚の四角いニコチン・パッチが貼られていた。
SH: 呼吸なんて退屈だ。
Johnは眉をひそめて部屋の中へ入っていく。
JW: 三枚も貼ってるのか?
SH: パッチ三枚分の問題なんだ。
うなずきながらしばし部屋を見渡していたJohnは再びSherlockへ顔を向けた。
JW: それで?
Sherlockは天井を見つめたまま何も応えない。
JW: 君が来いって言ったんだろ。ここに来るのに一時間掛かったんだぞ。大事な用だと思ったから。
Sherlockはすぐには返事をしなかったが、ようやく顔を上げた。
SH: ああ、そうだ。電話を借りていいかな?
Johnは信じられない思いで彼を見つめた。
JW: 電話を?
SH: 僕のは使いたくないんだ。番号を常にわかるようにしてあるからさ。Webサイトで。
JW: Hudsonさんだって電話を持ってるだろ。
SH: ああ、でも下にいるから。呼んだんだけど、聞こえなかったみたいで。
JW: (怒りを帯びてきて)僕はロンドンの反対側にいたんだ!
SH: (落ち着き払って)急がなくてもよかったのに。
Johnは落ち着き払って遠くを見つめるSherlockをにらみつけていたが、仕方なくジャケットから電話を取り出して彼に差し出した。
JW: はい、どうぞ。
Sherlockは電話を受け取った。苛立たしげに首を振りながらJohnは振り返って少し離れ、再び彼の方へ向き直った。
JW: で、これは何なんだ、事件(case)の?
SH: ケース(case)。
JW: ケース?
SH: スーツケース、そう。殺人犯はスーツケースを持ち去った。最初の大きなミスだ。
Johnは困惑して眉をひそめる。Sherlockはそれを一瞥すると立ち上がって窓の方へ歩み寄った。
SH: 駄目だ。他に方法はない。覚悟を決めないと。
JW: 覚悟って?
SH: (彼の方へ振り返って)そこのテーブルの上に番号がある。
電話を投げてJohnに返す。
SH: メッセージを送ってほしい。
JW: 誰に送るんだよ?
SH: 気にするな。テーブルの上、番号がある。ほら、いいから。
そう言うとまた窓の方を向いてしまった。Johnは再び信じられない思いで首を振ったが、椅子のそばにある小さなテーブルに歩み寄った。住所を記載した小さなラベルがあり、そこに書いてある番号を電話に入力し始めた。
JW: Donovan巡査部長の言う通りだったかもな。
SH: (肩越しに少し視線を向けて)何て言ってた?
JW: 君がサイコパスだって。
SH: へえ!あの女がそんなに賢いとはな!
JW: いつか殺人現場を目の当たりにする、そしてその死体は君がもたらしたものになるだろうってさ。
SH: (言われたことを無視して)これから言う通りに。“What happened at Lauriston Gardens? I must have blacked out. [ローリストン・ガーデンで何があったんでしょう?気を失ってたみたいです]”
苛立って首を振りながら、Johnは杖を脚に寄り掛からせておいて入力を始めた。Sherlockはメッセージを続ける。
SH: “Twenty-two Northumberland Terrace. Please come. (ノーサンバーランド・テラスの22番地です。来てください)”
入力を続けながら一瞬部屋を見渡したJohnは思わず二度見した。小さなピンク色のスーツケースが置かれているのに気付いて目を見開く。杖を取って寄り掛かり、衝撃を受けているとSherlockは肩越しに彼の様子を窺った。
SH: 何だ?送信してくれ。
Johnが後ろによろめいていると、Sherlockは部屋の中を進んでスーツケースを手に取った。
SH: 送信したか?
JW: (曖昧に)ちょっと待って。
Johnがメッセージの入力を終えるとSherlockはテーブルにケースを運び、上に乗せてジッパーを開く。
SH: 「不可能」を見てくれ。
スーツケースを開く。
SH: ケースに入っているもの。
JW: どうやって手に入れたんだ。
SH: 探し出した。
JW: どこから?
SH: 犯人はローリストン・ガーデンまで車で行ったことがわかっている。犯人は男だということがわかっている。男がこのケースを持っていて人目を引かないわけがない、だから車に残されていると知った瞬間、間違いなくどこかにやってしまいたいと感じたはずだ。ミスに気づくまで五分以上はかからなかっただろう。
-ガレージの屋根の上に立ち、Sherlockはケースがどこかに隠されていないかあたりを見渡している。
SH: 僕は通りの裏をすべて調べた、ローリストン・ガーデンから車で五分の範囲内にあって…
-地上に戻って大きな廃棄物容器の中に入り込んだSherlockが中にあるものを手当たり次第に放り投げている。
SH: …厄介な物を人目に付かずに処分できそうな場所を探した。
-Sherlockは廃棄物の中からピンクのスーツケースを見つけ出した。
SH: その容器を探し出すのに一時間もかからなかったね。
-喜んでニヤけた笑みを浮かべたSherlockは荷札を確認し、満足そうに手を叩くとケースを持って容器の外に出て、夜の街へ駆け出していった。
221BにいるJohnは腰を下ろし、畏敬の念を抱きながらスーツケースを見つめていた。
JW: ピンクか。うまくいったのはケースがピンク色だってわかっていたから?
SH: (向かい側に座っている)まあ、ピンクでなくちゃいけなかったからね、当然。
JW: (自分自身に)なんでそう思わなかったんだろ?
SH: バカだからだろ。
Johnはびっくりして彼を見た。
SH: ああ、ああ、そんな顔しないで、実際みんなそうなんだから。
わずかに笑みを向けてJohnの電話を指差す。
SH: 送った?
JW: (電話を見下ろしながら)うん、送った。あれは何だったんだ?
Sherlockはラベルを荷札に戻して話を続ける。
SH: ケースにある荷物-見てみろよ。
溜め息をこぼしながら電話をジャケットにしまったJohnは、前に屈み込んで女性の肌着を漁り始めた。Sherlockは顔の前で両手を合わせてその様子を見守る。
JW: 何を探すっていうんだ?
SH: 「不可能」、ひとつ不可能なことがある。
JW: 服の着替えに、化粧品のバッグ。洗面道具に小説の本。(後ろに座り直し)何が「不可能」だって?
SH: 携帯電話。
JW: 携帯電話なんか無いぞ。
Sherlockは椅子の肘掛け部分の両側に手を叩きつけると足を持ち上げて座席にしゃがみ込んだ。
SH: それが「不可能」なことなんだ。ケースの中に携帯が無い、コートのポケットにも携帯が無い。
JW: じゃあ、持ってなかったのかも。
SH: 複数の浮気相手がいるんだぞ。当然持ってるはずだ。
JW: 家に忘れてきたのかも。
SH: 繰り返すが、複数の浮気相手だぞ。家に電話を忘れたりするもんか。
JW: じゃあ何処にある?
SH: 何処にあるかわかってるだろ。更に重要なことに、誰が持っているか、も。
JW: 殺人犯?
SH: (笑みを浮かべ)殺人犯。
Sherlockは起き上がり、椅子から床に下りた。Johnは半狂乱でジャケットにある電話を取り出そうとする。
JW: 僕は誰にメッセージを?
SH: ただ電話を車に落としただけだったのかもしれないし、僕らを犯人へ導くためにわざと置いていったのかもしれない、だが殺人犯は電話を持っている。
合図を受けたようにJohnの電話が鳴り出した。画面を確認する。
077900955
mobile
Sherlockは鳴り続ける電話に鋭い眼差しを向ける。
SH: 最後の犯行から数時間経っている。そしてその女からとしか思えないメッセージを受け取った。無実の人間であればそういうものは無視するだろう、何かの間違いと考えて。罪を犯した人間は…
電話は鳴るのを止め、画面の表示が消えた。
SH: (ニヤついた笑みを浮かべ)…パニックに陥る。
するとジャケットを取り、それを着始めた。
JW: 警察には話をしたのか?
SH: 五人も死んでいるんだ。警察と話している暇はない。
JW: じゃあ何で僕には話す?
SH: ここにいるから。
Johnは再び電話を見下ろす。
SH: あれ?
JW: どうした?
SH: あの、そこでただ座ってテレビを観ててもいいんだけどさ。
Johnは笑いながら椅子に寄り掛かった。
SH: だめかな?
JW: Donovan巡査部長が。
SH: あの女が何だ?
JW: 言ってたんだ…君は夢中になっていて、楽しんでいるんだって。
SH: (コートを着てマフラーを巻きながら)それから僕は「危険だ」と言った、そして君はここにいる。
そう言うとSherlockは外へ出ていった。Johnは歯軋りしながらも苛立たしげに杖に寄り掛かりながら立ち上がり、ドアへ向かった。
JW: 畜生!
Sherlockに追いついたJohnは一緒に外へ出た。Sherlockが玄関のドアを閉めて、二人は道を歩き出す。
JW: 何処に行くんだ?
SH: ノーサンバーランド・テラスはここから歩いて五分。
JW: おい、犯人がバカみたいにそこにやってくるとでも?
SH: いいや-犯人はすごく賢い奴だと思う。賢い奴は大好きだ-奴らはいつも捕まりたくてしょうがないんだ。
JW: どうして?
SH: 評価を求める。スポットライトさえ。人にとっては逮捕だが、奴らにとってはカミングアウトのパーティーだ。それが天才の弱点。観客を求めてしまうんだよ。
JW: ふーん。
Sherlockに当てつけがましい視線を向ける。
JW: そうだな。僕もそう思うよ。
二人はレストランへやって来た。Johnを連れて中に入ったSherlockは窓際に空いている席を見つけた。窓に背を向ける方の席でコートを脱ぐとJohnは向かい側の席へ腰を下ろす。外にある標識には“Northumberland Terrace[ノーサンバーランド・テラス], W1”とある。SherlockはJohnへ顔を向けた。
SH: ノーサンバーランド・テラスの22。目を離すなよ。
そう言って席に座る。
JW: (杖を椅子の後ろに置きながら)君は目を離さずにいたくないのか?
SH: 見てるよ。
Johnの背後を顎で示す。振り返ってみると後ろの壁に鏡が掛かっていて、Sherlockはそこから通りの様子を確認することが出来た。
JW: でも犯人は単にドアベルを鳴らしたりなんてしないんじゃないか?
SH: いや、そんなはずはない。だが通り過ぎるかも、ブラブラしたりして。
JW: ロンドンの半分が通り過ぎるぞ。
SH: 僕には奴だとわかる。
JW: 誰だか知ってるのか?
SH: 何者だか知っている。
レストランの支配人か店長と思われる男性が、Sherlockに会えて喜んでいる様子で二人の席へやって来た。
Angelo: (イタリア訛りで)Sherlock!
身体を寄せて小声で話す。
Angelo: メニューにあるもの何でも、好きなものをごちそうするよ。
内緒話をするように唇に指を当てる。
Angelo: みんな奢りだよ、君と彼氏に。
SH: (Johnに)何か食べるか?
JW: (Angeloに)僕は彼氏じゃないから。
Angelo: (Sherlockの身体に腕を回して肩を抱きかかえながら顔を寄せて)ああ!もう、この人はね!
誰にも聞かれていないかあたりを見渡してからJohnに顔を向ける。
Angelo: 私の殺人容疑を晴らしてくれたんだよ。
SH: こいつはAngelo。三年前、僕が首尾よくLestradeに証明してやったんだ、三人殺された事件の、捜査の誤りを詳細にね。Angeloは町の全然違う場所にいて車上荒らしをしてたんだ。
Angelo: 私の汚名を返上してくれた。
SH: 少しだけね。
Angelo: (Sherlockを放して起き上がり)メニューにあるもの何でも、私が作ってあげるよ。
SH: ありがとう、Angelo。
Angelo: この人のためなら、私は刑務所に入ったよ。
SH: 実際入ったじゃないか。
Angelo: (少し気まずくなってから気を取り直して)このテーブルにキャンドルを持ってきてあげる。(Johnにニヤついた笑みを向け)その方がロマンチックでしょ、ね?
JW: (席を離れようとするAngeloに向かって憤然として)彼氏じゃないってば!
Angeloは構わず二人分のメニューをテーブルに置き、満面の笑みを浮かべてから席を離れる。Sherlockは自分の分のメニューを脇に置き、鏡を見つめた。
SH: 君は食べた方がいい。長く待つことになるかもしれない。
JW: ふむ。君は食べないの?
SH: 何曜日だ?
JW: 水曜日。
SH: もう少しだいじょうぶだ。
JW: 今日は食べてないのか?何やってんだ、食べなきゃダメだよ。
SH: いや、君は食べなきゃいけない。僕は考えなきゃいけない。頭脳こそが肝心。他はすべて生命活動だ。
Johnは眉をひそめた。そこへホルダーに赤いキャンドルを乗せたAngeloが戻ってきて、テーブルに置いて火を灯した。
JW: 君も燃料の補給を考えないと。
そう言ってJohnは困惑しながらキャンドルを眺め、諦めたように溜め息をついてからメニューに視線を戻した。
SH: (ぼんやりと)うーん。
JW: で、君は時々飯を食わせてくれる彼女とかいるの?
SH: 彼女の役目はそういうものなのか?飯を食わせること?
JW: じゃあガールフレンドはいないってこと?
SH: (鏡を見つめたまま)そういうのは僕の範疇じゃない。
JW: ふーん。
すると少し間を置いて、Johnは彼の発言に重要な可能性を見出した。
JW: ああ、そうか。彼氏がいるとか?
Sherlockは怪訝そうな視線をJohnに向ける。
JW: いいんじゃないか、そういうのもさ。
SH: それくらいわかってる。
JW: じゃあ君には彼氏がいるってことかな?
SH: いない。
JW: そうか。わかった。君には相手がいない。僕みたいに。(何も言うべきことがなくなったしまった様子でメニューに視線を落とす)いいね。
少しの間Sherlockは訝しげにJohnを眺めた。彼の言葉を頭の中で反芻しているようだ。
SH: John、君は知っておくべきだと思うんだけども、僕は仕事と結婚してるようなもんで、だから興味を持ってくれるのはうれしいんだけど、本当に僕はどんな類の関係も…
JW: (遮って)いや、いいんだ。
気まずそうに周りを見渡してSherlockに向き直る。
JW: 追求してたわけじゃない。いいんだ。
Sherlockはしばし彼を見つめ、うなずいた。
JW: 僕が言ってるのはさ、大いに結構ってことで。誰でも…そそられる…(困惑しながら上を見上げて相応しい言葉を探し)…相手なら。もう黙った方がいいな。
SH: それが一番だな。
Sherlockは鏡越しに通りを観察し、Johnはメニューを眺めた。彼が黙っていられたのは七秒ほどだった。
JW: で…
Sherlockは苛立ちながらわずかに目を閉じる。
JW: …君は…何も…しないの。
SH: (ゆっくりと、Johnの頭から邪念を取り払おうとするかのように)他はすべて生命活動だ。